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 /1


 キッチンの流し場で手を拭いた私は、さっき絞ったふきんをテーブルの方に放り投げた。
 ぱさっ、と音がして、緑と白のストライプが無造作に広がる。それを見届けてから、スゥの座ってるソファに近付いて、ひっそり背後に回ってみた。
 さっきからテレビをぼんやり眺めてるスゥは、ここまで来ても微動だにしない。試しに息が触れるほど顔を首筋に寄せてみたけど、うなじに掛かった髪がはたはた揺れるだけで、いつものことながらちょっとむかっとしてくる。
 だから私は両手を上げて、スゥの首に指を絡めた。

「……冷た」
「やっと反応した」

 勿論首を絞めたりとかそんなつもりはないので、すぐに解いて右の肩に顎を乗せる。
 耳元に「おーもーいー」と気怠げな声が入ってきたけどそれは聞こえないふり。しばらくそうしてるとスゥは諦めて、右手で私の頭を撫で始める。
 男の人にしては細い指。スゥが髪を梳いたり整えたりしてくれるこの時間が、私は大好きだった。
 んふ、と思わず息が漏れる。そんな私の反応に満足したのか、段々右手が下りてきて、服の中に少し潜り込んだ。
 鎖骨のくぼみを指がなぞる。結構無理な姿勢だから、もうそこより奥には届かないってわかってるんだけど、それでもちょっぴり期待しちゃうのは、ここ数日ご無沙汰だから、かもしれない。
 くすぐったさに私が身をよじると、ようやくスゥが手を引いた。
 テレビの画面では相変わらずバラエティが垂れ流されてる。毎週この時間に見てる番組だけど、特にスゥは好きじゃないってことを私は知ってる。

「ミヤ、汗の匂いがする」
「……スゥがちょっかい出したからだよ」
「風呂は?」
「まだ」
「そっか」

 自分で訊いといてちっとも興味なさそうな声色なのが、何だか余計に腹立つ。お返しとばかりにスゥの首筋を、私は舌先でちろりと舐めた。
 しょっぱい。塩とおとこのひとの味。

「スゥ、汗の味がする」
「そうだろうね」
「……もう、なんでそんなに淡白なの」
「今みたいなミヤを見たいから、かな」

 ずるい、と呟いて、スゥの肩から顎を離す。
 微かな頬の熱を誤魔化すように、冷蔵庫に麦茶を取りに行きかけて、

「………………」

 くんくん。
 自分の匂いを確かめた。

「……あの、スゥ」
「ん?」
「これからお風呂入ってくる」
「そう言うと思った」

 スゥがソファから立ち上がる。
 私の横を歩き過ぎ、自分の部屋に入っていったのを見て、ああ、たぶん着替えを持ってくるんだろうなあ、と苦笑した。
 戻ってきてからの第一声は、想像がつく。

「じゃあ一緒に入ろっか」

 ほらやっぱり。





 /2


 ソファでスゥが寝ていた。
 といっても珍しいことではなく、だいたい週に一度はこういう姿を見る。あるいは習慣付いてるのかもしれない、と思いながら、私は誘蛾灯に誘われる虫のようにふらふらと、無防備な寝顔を晒すスゥのそばに寄った。
 普段は飄々とした、何事にもあんまり動じない印象があるけれど、この時のスゥはどこかあどけない。可愛い、と感じる数少ない状況。
 だいぶ時間も遅くなって、ソファの奥ではニュースがやっていた。単調な声で今日の出来事が読まれる。それを右から左に流して、私はするりとスゥの側に移動する。
 床に落ちた左手が、こっちの接近を察したのか、微かに震えた。でも、まだ起きない。
 ほっ、と胸を撫で下ろし、慎重に膝を折っていく。三十秒ほど掛けて床に正座すると、丁度私とスゥの頭が同じくらいの高さになる。
 睫毛の数……まではさすがに数えられそうにないけど、呼吸に合わせて動く喉仏とか、息を吐く時少しだけ開く乾いた唇とか、そういうのがよくわかって、何となく嬉しい。
 しばらく、特に何をするでもなく眺める。
 そのうちうずうずしてきて、我慢できなくなって、そろり、そろりと上半身を傾け、スゥの顔に唇を落とす。鼻先が触れそうになる距離。熱っぽい私の吐息がお互いの間に広がり、ん、とスゥが呻く。
 大丈夫。いける。さん、に、いち。
 微妙にぱさっとした唇は、それでもやわらかい。
 合わせるのはほんの一瞬に留めて、ゆっくり離れようとする、と、いきなり後頭部を押さえられた。
 唐突なことに反応できず、為すがままに再び頭が沈む。今度は五秒。些か強引なキスは、スゥが手の力を抜くまで終わらなかった。
 ぷは、と詰まった息を吐く。
 我ながらちょっと涙目。恨みを込めて睨む。
 けれどスゥは平然とした表情で、ぺろりと自分の上唇を舐めた。

「そんなにしたかった?」
「違っ……くは、ないけど」
「ならよかった。嫌がるのを無理矢理ってのは好きじゃないから」

 無理矢理なことには変わりないじゃない、と反論したかったけど、私も寝てる間にやってるのでほとんど大差ない。これはおあいこだ。
 結局言葉が見つからなくて、正座をしたまま俯く。
 私拗ねてますよ、のサイン。
 スゥの小さく笑った声が聞こえた。
 のそりと身を起こし、ソファからキッチンに移動する。

「お姫様、今日の気分は?」
「……たっぷりでお願いします」
「了解」

 いつものあからさまなご機嫌取りだとわかっていても、スゥの淹れるハニーティーはおいしいから、ついつい餌に釣られてしまう。
 コンロの前に立つスゥの背中を見つめつつ、紅茶に合うお菓子はあっただろうかと、戸棚のある方に私は向かった。





 /3


 家事は交代で。
 そんな取り決めをして以来、どうしても外せない用事があったり、体調が悪かったりする時を除けば、その約束は律儀に守られ続けてる。
 昨日は私が当番だったから、今日はスゥがキッチンでちょっと前まで腕を奮っていた。
 多趣味なスゥは料理も上手い。レパートリーは和食中心だけど、どっちかというと私の持ちレシピは洋食寄りなので、バランスは取れてたりする。
 食べ終わったのはついさっき。水の流れる音を子守歌にして、私はソファでうとうとしていた。
 お風呂上がりで少し濡れた髪が頬に張り付き、それを指で剥がして背もたれの方に投げ出す。
 結構長くなってきた。もうそろそろ切ろうかな。
 そんなことをゆるゆるの頭で考えていると、背後の水音が止まった。続いて気配がこっちに向かってくる。スゥはサンダルを滅多に履かないから、足音はひたひたと静かなものだ。

「ミヤ」

 短く名前を呼ばれる。
 私はとりあえず寝たふり……というか、本当に眠くてこのままソファでおやすみしちゃおうかと思ってた。
 近くにいるはずの、スゥの声がどこか遠い。

「風邪ひいても知らないよ」
「……んぅ」

 意識がさらに薄れて、ぼんやりしてくる。
 そのまま私は夢の中へ、

「ぁむ」
「――っ!」

 一発で跳ね起きた。
 何を考えてたのか、いきなりスゥが私の右耳を唇で挟んだのだ。ぬめっとした舌が耳の穴をつついてきた瞬間、びっくりし過ぎて引っ繰り返ってソファから転がり落ちる。当然しこたま腰を打った。痛い。

「ちょっ、す、スゥ、何するの!?」
「これはチャンスだって思って。驚いた?」
「誰だって驚くよ!」

 かなり怒ってるつもりなんだけど、スゥはちっとも悪びれない。それどころか、床に転がった私を見て、微妙に頬を緩めていた。こんにゃろ、そんなにおかしいか。
 私は腰をさすりながらソファに復帰する。さすがにもう、さっきまでの眠気は吹き飛んでいた。

「ああもう……折角いい気分だったのに……」
「そういうミヤにはいたずらしたくなっちゃうんだ」
「うわー、嫌な告白だー……」
「だって可愛いし」
「……騙されないからね」
「残念」

 くすくすと、今度は嬉しそうにスゥが笑う。
 私の耳に付いた唾液を指で拭って、おもむろにソファの背もたれを乗り越えてきた。隣に着地し、座る私の膝裏に腕を入れる。同じようにして肩胛骨の辺りにも。

「よいしょ、っと」
「うひゃっ!?」

 逃げようとしたけど遅かった。
 ちいさなこどもみたいに身体を持ち上げられる。いわゆるお姫様的なだっこ。恥ずかし過ぎるあれだ。
 経験上暴れても抜け出せないし危ないとわかってるので、こうなるとされるがまま、任せるしかない。
 随分なやり口にせめて文句をつけてやろうと不機嫌さを露わにしてみるも、全然スゥは意に介さず、私を抱えたまま寝室へ向かい始めた。

「あのー、ねえスゥ、どうしてベッドに連れてこうとしてるの?」
「眠たそうにしてたからね」
「……わざわざこんな風にしてるのは?」
「さっき腰打ってたみたいだから、僕が運んであげようかなって」

 なんかもういいや。
 結局ベッドに入ってもしばらく寝付けなくて、いつも通りスゥと一緒に夜更かしすることになったのでした。





 /4


 雫が滴る髪をぎゅっと手で絞り、水を払ってからタオルで身体をさっと拭く。お風呂から出た途端、こもっていた湯気がもわりと外に溢れて、脱衣所兼洗面所の鏡を曇らせる。
 バスマットに足を付くと、湿り気が足裏に広がるのを感じた。何とはなしに俯いて、濡れた自分の胸元を凝視する。
 まあ、可もなく不可もなくというか。
 ぺったんこじゃないけど、特別おっきいわけでもない。
 予め用意してある大判のタオルを取って、今度は丹念に水気を浚っていく。軽くお腹の肉をつまんで微妙なぷにぷに感にへこんだりしつつ。
 着替えは入る前に持ってきた。すみっこに畳んで置いといたそれを拾い上げ、そろそろとぱんつを穿く。まだ肌に湿り気が残ってるせいか、ちょっと引っかかるような感じで、形を整えるのに時間が掛かった。
 最後にお尻辺りの布をぴっと引っ張り、よし、と一息。色気も何もない下着だけど、別に見せるためのものじゃないから問題ない。どうせスゥはあんまり気にしないし。
 さて次はブラだ、と再び屈んだ私は、そこで、とんでもないことに気付いた。

「……あれ? ない?」

 今穿いたぱんつに、薄手のシャツとショートパンツ。着替えを持ち上げても逆さにしてみても隠れてたということはなく、何度確かめたところで現実は変わらなかった。
 ブラがない。どこにもない。
 勿論寝室に戻ればすぐ見つかるけど、大変遺憾なことに、そうするにはリビングを通り抜ける必要がある。
 そしてこの時間なら十中八九、スゥはソファにいる。もしかしたらうつらうつらしてるかも、なんていうのはまあ、甘い期待にしかならないだろう。
 ――いや、そりゃあ寝ぼけてた私も悪いんだけど! 正直タンスから着替え出してた時の記憶ほとんどないけど!
 でもさすがにこれはまずい。何がまずいって、どうやっても部屋まではノーブラでいるっきゃないってのが。
 シャツを着るにしても、上半身にバスタオル巻くにしても、スゥには間違いなくバレる。

「あああああ、これじゃ絶対誘ってるって思われる……!」

 お風呂上がりに女の子がノーブラで男の前に出るとか、もうそれ襲ってくださいって言ってるようなものじゃないでしょうか。幾分極端な話だとも思うけど、スゥならやる。そういうところは遠慮しないタイプなのだ。

「うぅ……とりあえず、行くしかないか……」

 ブラを着けられないまま、シャツを被る。たった一枚の布の頼りなさに、何だかとても情けなくなった。薄いから
肌に張り付くし、そうなると胸の輪郭がもろに出る。あと、さきっちょこすれるのが気になって仕方ない。
 我慢我慢、と自分に言い聞かせながらショートパンツも穿き、勇気を振り絞って外に。摺り足でリビングに入り、壁伝いに寝室の方へと身を滑らせ、

「ミヤ」
「うぐ」

 だめでした。
 目の前に立ち塞がり、明らかに不審な私の姿を見るスゥの視線が、案の定ある地点で止まる。

「着替えにブラジャー入れ忘れた?」
「う、うん、そう! ……だから見逃して?」
「そんな理由が通ると思う?」

 ぽん、と肩にスゥの手が置かれる。
 私はもう、抵抗できなかった。





 /5


 一ヶ月に一回くらい、何だか無性に寂しくなる日がある。
 自分でもその理由はよくわからないんだけど、一人でいると急に心細くなって、馬鹿みたいに涙腺が緩くなるのだ。
 そんな私の変化に、不思議とスゥはすぐ気付く。毎回決まった周期で来るわけでもない私の“発作”を察知して、よっぽどのことがない限り、一日中そばにいてくれる。
 朝起きて、ああ、そうなんだな、とわかった。
 いつも私より早いスゥを、今日は恨めしく思ってしまったから。
 目覚めて隣に誰もいない、それだけのことで心細く感じる。
 我ながら酷い情緒不安定っぷりだ。
 スゥはリビングで朝ご飯を作っていた。振り返り、おはよう、と私の名前を呼んで、それから微かに表情を曇らせる。
 コンロの火を止めて、俯く私の頭を、優しくぽんぽんと叩いた。
 ――大丈夫。ちゃんとわかってる。
 そういう気持ちが伝わってきた気がして、少しうるっと来た。朝から泣きかけるとか、本当にどうしようもない。
 今日の私は、例えるなら親の後ろを離れないちっちゃい子みたいだった。
 スゥが立ち上がると、反射的に付いていきたくなる。トイレの時はドアの前で待った。昼食の時はそばで見てた。あとはずっと二人でソファに座ってた。

「……ん、ぁ」
「おはよう」
「う……もしかして、寝ちゃってた?」

 三時くらいまでは記憶があったけど、どっかで落ちちゃってたらしい。私の問いに、隣で本を読んでいたスゥが頷く。
 くたりとスゥの肩に預けてた頭を上げて、小さくあくびをひとつ。まだとろとろした眠気が残ってるけど、ここでもう一度寝ると夜更かししてしまいそうだった。
 こんな日は、あまり遅くまで起きていたくない。
 重い瞼をこすり、両手を掲げて「んぅー」と伸びをする。

「あのさ、スゥ」
「なに、また頭でも撫でてほしい?」
「ほしいけどそうじゃなくて。夕ご飯は私が作ってもいい?」
「当番交代したいの?」
「ううん。今日はなんにもしてないから、ちょっとくらいはって思って」
「そう。いいよ。必要なものがあれば買ってくるけど」
「ありあわせのもので済ませるからだいじょうぶ。……それで、えっと」
「心配しなくても、後ろで見ててあげるよ」
「……うん、ありがと」

 男のひとにしては華奢な、けれど私にとっては大きくて、何より安心できるてのひらが頬に触れる。指先がするりと耳の裏をなぞり、寝起きでぴょんと跳ねてたらしい髪を整えてくれた。
 こうしてスゥに優しくされると、身体の奥で仄かな疼きを感じる。あったかいものが欲しくて、おねだりしてしまいそうになる。
 でも、今日みたいな日は、絶対スゥは手を出さない。
 嫌だから、と言っていた。
 寂しさを紛らわすようなのは、どっちにとってもいいことじゃないよね、と。
 だから私は、気付かないふりをする。
 精一杯甘えるように体重を委ね、眠くはないけど、目を閉じる。

「三十分」
「ん」

 短い返事に満足して、今の、心地良い空気に浸った。





 /6


 我が家のリビングにある縦長の小物入れに突っ込まれてるものは、とにかく節操がない。赤と黒のマーキーにボールペン、何種類かのサイズが違うドライバー、青い取っ手のハサミと小さなカッター、ラジオペンチ、細いスティックのり、あとこないだ見たら何故か使ってない箸が逆さに刺さっていた。勿論洗って元の場所に戻した。
 私もスゥもそんなに片付けが苦手なわけじゃないんだけど、棒状の何かを置くところに困った時は、ついついそこに放り込んでしまう。だからどっちが入れたのかもわからないものがちょこちょこ見つかったりして、たまに二人で整理するのが密かな楽しみでもある。
 とまあ、それはともかく。
 件の小物入れには、結構日常的に使うものも混ざっている。ボールペンなんかはメモ書きで必要になるし、ハサミはやっぱり出番が多い。
 そして、その中でもだいたい月に一回、必ずスゥが手に取るものがある。
 私はそれが好きだけど、苦手でもあった。

「ということでミヤ、そろそろやろっか」
「う……何となくそんな気がしてたんだ……」
「ほら、早く横になって」

 ソファに座っているスゥが、自分の太腿をぽんぽん叩く。
 いつも通り若干の躊躇いを覚えながらも、私はそこに頭を乗せた。

「どっちを先にする?」
「……右で」

 身体をソファの右側に投げ出すような姿勢で、視線はテレビの方に向ける。
 スゥはテレビとソファの間にある足の短いテーブルを引き寄せて、手前にティッシュを一枚広げた。風で飛ばないようにティッシュ箱を置いて固定してから、一旦端に避けていた“それ”を摘み取る。

「行くよ」

 右耳の辺りに、スゥの手が下りるのがわかった。
 探るように入口で円を描き、おもむろに耳穴へとその先端が滑り入る。くすぐったさ半分、怖さ半分の感覚に、ん、とわたしは呻いた。
 スゥは、毎月私の耳掃除をしたがる。「ミヤにやってあげるのは楽しいからね」なんていつかは言ってたものだけど、こっちが悶えたりしてるのを見るのが楽しいからに違いない、と私は踏んでいる。実際、耳掻きを持ったスゥはいじわるなのだ。
 ゆっくりと奥に進んでいく先っぽが、時折外壁をこりこりと削る。そうしていると何かに引っ掛かることがあって(言うまでもなくあまり声高に口にはしたくない例のアレなんだけど)、そうなるとスゥは薄ぅく頬を綻ばせる。奥の方から上に、あの「し」の字の平ったい先端で、それはもう執拗にごりごりするのだ。
 痛い。思わずスゥの太腿に全力で爪を立てるくらい痛い。我慢できなくて「ぎゃー!」とか女の子的にまずい悲鳴を上げるくらい痛い。
 けれど私の頭が跳ねそうになると、空いた左手でスゥががしっと押さえつけてくる。勿論暴れると危ないからなのはわかってるんだけど、この時ばかりは恨みがましい目で見てしまうのも仕方ないと思う。ちなみに今日は片耳だけで二回叫んだ。

「はい、次左ね」
「もうちょっと手加減してくれてもいいのに……」
「こんなに出てくるミヤの耳が悪い」

 その通りなので反論できない。
 ちらっと覗いたテーブルの上には、ごそっとしたかたまりがいくつか。自分の耳からそんなものが発掘されたという事実にしょんぼりしつつ、私はよいしょ、と頭を返す。 耳掃除の何が一番恥ずかしいかって、スゥの方を向く時だ。傍目には私がスゥの股間に顔を埋めてるみたいで、すごく微妙な気持ちになる。
 鼻先にズボンのチャックと留め金。右の頬が沈むスゥの膝は、結構筋肉質だけど、硬いってほどでもない。男の人の匂いがするような錯覚。もやもやしながら私はきゅっと目を閉じる。
“大物”を取る時はともかく、それ以外の手付きはかなり優しい。慎重に耳の中、内側をこりこりされると、首筋の辺りがぞくっとして、堪えきれずに声が漏れる。

「ん……ぁ、ふぅっ……や、あぁ」
「あと少しで終わるよ」

 細かいのを掬い上げ、最後に唾液で濡らした綿棒をスゥが突っ込む。入口もくるっと擦り、粉っぽい汚れを落として、ようやく私は解放された。
 ……解放されたんだけど、胸のどきどきが治まらない。

「お疲れ様」
「ああうぅ……」
「続きは寝る前でいい?」
「……絶対今日はしないから」

 その「全部わかってる」みたいな笑みがむかつく!
 でも結局毎回流されちゃう私は意志が弱いのかもなあ、と、朝起きる度に情けなくなるのだった。





 /7


 季節の変わり目に弱い。
 というのも、例えば六月の最中とか、九月から十月に掛けて、十一、二月、あとは三月前後辺りになると、お決まりのように体調を崩してしまうのだ。急激な気温の上下が駄目なのか、それとも何か別の要因があるのかはわからないけど、ともかくその時期には必ずどこかで数日寝込む。
 だいたい先に風邪をひくのは私で、そうなると十中八九スゥにもうつる。しかも私が快復するのを見計らったみたいに倒れるので、お互い看病にはもう随分慣れている。
 今回もやっぱり、スゥは私の後だった。
 さっき測った熱は、三十八度五分。充分高い。
 今や前時代の遺物というか、化石めいたアイテムである氷枕に買ってきた不揃いの氷と冷たい水を流し込み、茶色いゴム質の外身をタオルで巻く。もっとお手軽なのが色々売ってるのは知ってるんだけど、わたしもスゥもこのレトロな感じが好きで捨て切れずにいる。
 ついでに冷蔵庫から2リットルのスポーツドリンクを取り出し、グラスにどぼどぼ入れた。熱のある時はとにかく汗を掻くから、ちょこちょこ飲んでおかないと辛い。片手に氷枕、片手にグラスを持ってリビングを出た私は、寝室で横になっているスゥのそばで膝を折った。
 一旦グラスを置き、スゥ、と名前を呼ぶ。震える睫毛が動き、閉じていた目が薄く開かれた。こてんと私の方に頭が向いて、辛そうに咳をひとつ。

「頭上げて。枕替えるね」
「うん、ありがとう」

 お互い、こういう時に「ごめん」とだけは言わないようにしている。一緒に暮らしてるんだから、助け合うのが当たり前。好きでやってることに対して謝られても困るだけだ。
 さっきまで使ってた氷枕は、触るとだいぶぬるかった。とっくに氷は全て溶け、巻いたタオルも汗と露でちょっと絞れそうなくらいには濡れている。後で中身は流さなきゃなと思いながら、足下のグラスを手渡した。

「あ、起き上がれる?」
「ひとりでいけるよ」

 ゆっくり身体を起こしたスゥが、受け取ったグラスに口を付ける。こく、こく、と喉を鳴らして、すぐに中身は空になった。

「まだ飲むならペットボトルごと持ってくるけど……」
「今は大丈夫。それよりは着替えたいかな」
「わかった、じゃあ新しいの出すから――」
「ミヤが着替えさせてくれる? あと、汗も拭きたい」

 こいつずっと狙ってたな。
 しれっと出された要求を、けれど私は断れない。
 確かに近寄った時汗臭く感じたし、今のスゥは自分で着替えるのも大変だってことをわかってるからだ。
 溜め息をこぼし、ちょっと待ってて、と前置きして、私はまずグラスをリビングの流し場に持っていった。さっと洗って拭いて棚に仕舞い、寝室に戻って今度は箪笥を漁る。
 薄手のパジャマの上下、それと男物の下着を取り出し、乱雑に積み重ねておく。最後に洗面所へ。私が風邪をひいた時にも活躍したタオルを濡らして絞り、バケツにもお湯を張ってベッドまで運んだ。
 湿った手を合わせて軽く擦り、

「……脱がせるよ」

 上着のボタンに指を掛けた。なるべく優しく丁寧に、ぷつりぷつりと外していく。
 前を開け終え、今度はスゥの腕を持ち上げる。袖に引っ掛かる手首を抜き、もう片方も同じように。触れた肌からはじんわりした熱と汗が滲んでいて、私の指がなぞるとスゥは気持ちよさそうに目を閉じた。
 とりあえず、先に清拭を済ませることにする。
 まだ仄かに温かいタオルを広げ、適当な大きさに畳み、肩に当てた。そこからすっと、強過ぎず弱過ぎずな力加減で手指まで下りる。表面の次は裏面、折り返して腋に行く。汗の溜まりやすいところは丹念に。続いてさらに下、脇腹から腰上まで辿り着いたら、お臍の辺りを通って反対側の腕に。
 くすぐったかったりしても、スゥはあんまりそういうのを表に出そうとしない。ただ、時折首筋とかお腹がぴくぴく震えてるのがわかって、可愛いな、と思う。言っても無視されるから口にはしないけど。
 一度バケツに浸して絞り直し、首周りをぐるりと拭く。残りは胸と背中。鎖骨は畳んだタオルの端でピンポイントに、胸板はてのひら全体で大きく上下に。微妙な出っ張りというかツンとした何かを布越しに感じるけどそれは気にしない。

「強く行くね」
「どうぞ」

 ぐっ、とタオルを押し当てて、肩に力を入れる。
 揺れる背中に手と顔を寄せ、ごしごししながら匂いを確かめた。うん、いい感じ。汗臭さがだいぶ消えてる。

「終わりー。下はどうする?」
「そっちもミヤが」
「私はやらないから」
「……冷たいなあ。ミヤの時はちゃんと隅から隅まで」「あーあー聞こえなーい!」

 人畜無害そうな顔して盛ってるスゥを突き放し、新しいパジャマのボタンをあらかじめ外して着せる。両腕通して前留めておしまい。

「じゃ、夕方まで安静にしててね」
「はいはい。寝られなかったら本でも読んでる」
「何かあったら呼んでくれれば行くから」

 バケツとタオルと着替えを抱えて、リビングの方に私は逃げた。
 つい数日前のことを思い出したせいで、顔から火が出そうだった。うぅ、いくら熱で朦朧としてたとはいえ、パンツの中まで拭かれるとか……それより恥ずかしいこともいっぱいやってるけど、そういうのとは話が違うわけで。

「………………」

 あの時の優しい、いやらしくない手付きも身体はしっかり覚えていて、何とも言えない気持ちを引きずったまま私は洗面所に引っ込んだ。
 ……まあ、あとでもうちょいスゥにはサービスしてあげよう。
 なんて考えちゃう自分は、やっぱり甘い。





 /8


 私は、人より髪が伸びるのが早いらしい。
 だいたいいつもはセミロング、肩に少し掛かるくらいで調整してるんだけど、切ってから一ヶ月半もすると背の中程までになってたりする。
 前髪も、眉の辺りで揃えてたのが気付けば目に入りそうな長さに。そうなると何をするにも鬱陶しくて、アップにして髪留めで押さえて次の土曜まで我慢、という感じ。
 床屋や美容室には行かない。外に出るのが億劫だってのもあるけど、散髪代も結構馬鹿にならないものだからだ。そんなお金があるなら私もスゥもより良い食生活のために使う。
 できることは、なるべく自分達の手で。
 一緒に暮らすことになって、そういう風に決めてから、私の髪を切るのはスゥ、スゥの髪を切るのは私の役目だ。初めは慣れてなくて散切り頭にしちゃったけど(ちなみに器用なスゥは普通に巧かった)、半年もすれば私だってそれなりの腕になった。たまに切り過ぎちゃったりするのは、まあ、愛嬌ってことで許してもらってる。……あとで一個“お願い”を聞くっていう条件が付くんだけど。
 ともあれ、そろそろ切り時かなー、と思ったので、スゥに進言したのが水曜。カチューシャとヘアピンで誤魔化し誤魔化し過ごして、土曜ののお昼、私はお風呂場でちんまり椅子に座っていた。
 昨日の夜に一回掃除をして、さっきまで開け放ってたから、床はもうすっかり乾いている。そこに必要な道具を持ち込み、下には切り落ちる髪を集めてまとめて捨てるための新聞紙を敷いて、準備は万端。
 膝に手を置く私の後ろに、スゥは立っていた。
 耳元に唇を寄せ、それじゃ始めるよ、と囁いてくる。吐息がくすぐったい。
 まず、首周りにタオルを巻き、薄布の前掛けをその隙間に挟んで固定する。さらに上半身をすっぽり覆うケープを、服に髪が付かないように着けた。首元でマジックテープを合わせ、指を差し入れて苦しくないかを確認してくれる。
 微妙に感じる圧迫感は、一分もすれば慣れるもの。
 霧吹きで充分に濡らし、ぺたりとした髪を櫛で整えてから、スゥが右手に鋏を持つ。
 しゃきん。
 無意識の癖なのか、いつも最初に手が入るのは右耳の辺りからだ。髪を切る音、刃の合わさる音が、すごい近くで聞こえる。櫛で引っ張り流した束を指で押さえ、不揃いな先端を、また、しゃきん。はらはら散った髪がケープや床へ落ちるのに構わず、スゥは淡々と手を動かしていく。
 右側が終わったら次は左。正面に立て掛けられた鏡を見てると、どんどんサイドが短くなってくのがわかる。
 大雑把に横を済ませれば、今度は後ろ。襟足のところにすっと指が差し込まれ、首裏を指の間接で撫でるようにしながら、そこそこボリュームのある髪が持ち上げられる。

「ん……」
「肩まででいいんだよね?」
「うん」

 何度か櫛が通り、しゃく、しゃく、と鋏が髪を噛んで、余分な量を切り落とす。一束にしてばっさり、ということはせず、少しずつ、少しずつ。
 ある程度揃えて整えると、途中からスゥは梳き鋏に持ち替える。首裏に片刃の外側が潜って当たり、冷たい金属の感触に私は声を上げる。
 鏡に映る後ろ側、鋏の指穴が小刻みに上下し、私の髪をぷちぷちと千切っていく。細かい櫛にも似た梳き鋏が抜けると、長い糸みたいに髪が絡まっていて、スゥが刃先を指で摘んで擦る度にふわふわ舞い落ちる。
 こうして切ってもらってる間、ほとんど会話はない。
 ただ、鋏と髪束と櫛と互いの吐息の音がよく響く。
 真剣に私の髪をいじるスゥの顔は、とても好きだ。
 だってほら、

「前行くよ」

 額に触れる手が、優しい。
 落ちる髪が目に入らないよう下ろした瞼の向こうで、薄く黒い影が横切る。しゃきっ、と乾いた音が鳴り、スゥの手指が離れてはまたおでこに当たって、私の前髪を掻き上げる。そうして押さえられてるとだんだん頭が後ろに傾いでいって、時折スゥがこつんとつむじの辺りをプッシュして戻しても、気付けば視界が天井に寄ってしまう。

「また頭斜めになってる。……もうちょっとだから頑張って」
「わかってる……んっ」

 指の腹が額をなぞる。ゆるゆる上がって髪を挟んで、眉にギリギリ掛からない長さを見極めて、そこに鋏が通る。
 しゃきん。
 その音に、冷たさに、スゥの手付きに、どきどきして、ぞくぞくする。
 さすがに前髪ぱっつんは嫌なので(スゥはそれでも可愛いって言ってくれるけど)、適度に切り揃えた後、軽いシャギーが入る。この辺になるともう、ばっさり行くこともない。最後に細かい部分を整えて終わり。鋏のさきっぽで、ちょこんと飛び出してるようなところをちまちま切っていく。
 剃刀はほとんど使わない。本格的に床屋みたいなことをしようと思ったら必要なんだけど、以前スゥの耳の産毛を剃ってた時にさくっと怪我させて以来、お互い下手にやらないようにしようと決めた。
 危なげなく微調整も済み、いくらか短くなった髪に櫛を入れて、スゥが散髪道具を隅に置いた。

「はい、おしまい」
「ありがと。さっぱりした」
「どういたしまして。こっちもだいぶ伸びてきたから、明日お願いしようかな」
「了解。いつも通りでいいよね?」
「ミヤ相手に冒険したいだなんて言うつもりもないよ」
「……それは何、私じゃ怖くて任せられないってこと?」
「いやいや。ちゃんと信頼してます」

 どうにもフォローされた気にならない。
 あんまりな言い草に頬を膨らませた私に、ごめんごめんとちっとも申し訳なさそうじゃない声で謝りながら、折角整えた髪を片手でぐしゃぐしゃにしてくる。

「ううー、もう!」

 ぷんすか怒ったところで、スゥには全然効かないのだ。
 割と本気で拗ねた私は、最終的にその後の髪洗いをうんと優しくしてもらうことで許した。
 本当は直接指で梳かれるのが一番好きだってことは、絶対口に出さない。どうせあっちもわかってる。
 どんなに隠そうとしても、自分の緩んだ顔は鏡に映っちゃうんだし。





 /9


 久々に押入れの荷物を整理したせいか、どうも身体がじっとりして気持ち悪かったので、お風呂に入ることにした。
 どちらかというと、私は人より汗を掻かない方だ。それでも重い箱やら何やらを持ち上げたり下ろしたりしてれば結構な運動になるもので、部屋が地味に暑かったのもあり、終わった頃には背中の辺りが微妙に湿っていた。
 女の子としては、この臭いと不快感をそのままにしておけない。スゥは「別に僕は気にしないよ」とか言いそうだけど、当然私は気にする。真っ昼間からお風呂、という節約の反対に位置するような状況については、今だけ目を瞑ることにした。
 まあちょっとシャワー浴びるだけだしいいよねと自分に言い聞かせつつ、ささっと着替えを引っ張り出して脱衣所兼洗面所に閉じこもる。
 軽く蛇口を捻って水がお湯になるのを待つ間、手っ取り早く服を脱ぐ。汗で肌に張り付いてた薄手のシャツにハーフパンツ、それと下着一式。まとめて洗濯機に放り込み、浴室に入ってシャワーの熱を確かめる。
 ……うん、もう大丈夫。
 ノズルを私の頭の少しだけ上にあるフックに固定すると、程良く温かい流水を全身で浴びた。若干埃っぽかった髪を濡らし、手のひらで肌をすっと撫でる。さっきまで纏わり付いてた気持ち悪さがシャワーと一緒に流れていったみたいで、大変いい気分になった私は鼻歌を漏らしつつ、しばらくぼーっとお湯の温さに浸っていた。
 かなり埃被っちゃってたし、頭は洗っておこうかな。
 青い、水の方の蛇口を少しだけ解放して、シャワーの温度を軽く下げる。肌を叩く流水が微妙に勢いを増したのを感じ、ついでに赤い蛇口を僅かに締める。
 充分に髪を濡らしてからノズルの向きを左に動かし、端っこの棚に乗ったシャンプー入れに手を出す。ヘッドを押せば中身が――あれ。
 しゅこっ、しゅこっ、と強めに押してみるも、結果は変わらない。
 もしかしなくても、空だった。

「うわ……どうしよう」

 言うまでもなく私だって女の子だ、こういうものにはそこそここだわりがある。市販のは一通り試した上、一番自分好みなシャンプーやコンディショナーを選んでるわけで。
 だからこう、他の……まあスゥしかいないんだけど、慣れないシャンプーを使うことには抵抗があったりするのだ。だいたいスゥのはトニックシャンプー、以前一回だけ許可もらって使用してみたものの、何か物凄い頭がスースーする、どころか痛かったので懲りている。やだ。避けたい。
 なら頭を洗わなきゃいいとも思ったけれど、それはどうにも我慢ができそうになかった。女の子たるもの、極力身綺麗でありたい。多少流れたとはいえ、まだ埃っぽい髪で半日過ごしたいかと言われれば、全力で首を横に振る。
 風呂場はリビングから遠く、ちょっと奥まったところにあるので、たぶんスゥを呼んでも聞こえないだろう。今はきっと読書中だし、集中してるなら余計に届きそうにない。
 となると、やっぱり、自分で詰め替え用のを取るしかないか。
 シャワーを止め、じっとりと髪に溜まった水を絞る。バスマットは結構濡れちゃうけど、それは不可抗力。風呂場用のハンドタオルで雫を拭き、そろりそろりと外に出る。
 脱衣所兼洗面所には、歯磨きとか洗顔剤とかの換えが保管してあって、お風呂のあれこれもそこに仕舞っている。自分で整理したりもするから場所は把握済み。箱棚の二段目を開け、薄桃色のパックを掴んで抜き取る。
 空いたもう片手で棚を戻し、急いで引っ込もうと大股開きで風呂場の縁に足を掛けて、

「ミヤ」
「あ」

 がらっ。
 唐突に開いた引き戸の向こうに、スゥがいた。
 誰が見てもはしたないと思うような格好のまま、私は硬直する。

「ああやっぱり。あっちの部屋にはいなかったからたぶんここだと思ってた」
「………………」
「ミヤのシャンプー切れてたのを思い出したから、先に出しといて渡すつもりだったんだけど……その様子だと必要ないみたいだね」

 顔から足先まで、視線をゆっくり往復させたスゥは、全く表情を変えずに中へ入り、優しく私の肩に手を乗せて「身体冷やす前に戻って」とこっちを風呂場にやんわり押し込んだ。
 ぱたんと扉が閉まる。
 手元のパックが床にぽとんと落ちた。

「あ、あう、あうあうあう……」

 見られ慣れてるだろう、と言うなかれ。
 どれだけ裸を晒してても、覚悟してる時とそうでない時は心構えがまるで違う。
 しかもさっきの私酷い格好だった!
 髪は背中とか脇腹に張り付いてるし当然胸も隠してないし極めつけに大股開きだし!
 やるせない気持ちを何度か壁にごんごんぶつけて、溜め息ひとつ。さっき落とした詰め替えパックを拾い上げる。

「……早く頭洗おう」

 スゥのいわゆるラッキースケベ率は妙に高い。
 たまに狙ってやってるんじゃないかと疑うんだけど、未だに明確な証拠は得られずいるのだった。





 /10


 退屈と順応は人生の敵だ。
 暇を持て余せば人間だって腐るし、慣れや飽きはマンネリ化に繋がる。入れ換えなければ部屋の空気が澱むように、時折、あるいは定期的に新しい風を入れないと、二人だけの生活に何の面白味も見出せなくなってしまう、かもしれない。
 そういうわけで、私とスゥは月に一度、本気のじゃんけん勝負をしている。
 泣いても笑っても一戦のみ、三回戦とか五回戦とか後で取り返しがつく甘いルールはなし。
 重要なのは、もうひとつの取り決めだ。
 勝った方が負けた方に、何でも好きなことを命令できる。勿論相手が実行可能なものじゃないといけないし、あんまり無茶なことも駄目。その辺はお互い口にせずともわかってるので、自然と内容は限定されてくる。
 ちなみに勝率は五分五分……だったらよかったんだけど、残念ながらちょっと私が負け気味。四割くらい。いい加減一緒にいる時間も長いから、スゥの癖は結構知ってるとはいえ、条件は向こうも同じ。そうなると「如何にして相手の裏を掻くか」が勝負の決め手になる。で、その辺はスゥが一枚上手だったりするのだ。
 今月も負け。見事に私のパーはスゥのチョキでばっさりだった。

「私の手のばか……」
「残念だったね」
「……慰められても全然嬉しくない」
「そんなミヤには悪いけど、今日の“お願い”。耳貸して」
「あ、うん……え、え、えええ!?」

 追い打ちのように囁かれたそのひとことで、落ち込むどころじゃなくなった。

「拒否権は――」
「わかってるよね?」
「あう……はい」
「それじゃ、お昼食べてからにしよっか」

 スゥの柔らかい笑みが死刑宣告みたいに見えたのは、錯覚じゃないと思う。



「……スゥ、こ、これでいいの?」
「言った通りにしてきた?」
「見ればわかるでしょ……っ」

 お昼ご飯が少しこなれてきた頃、洗面所で着替えてきた……というか脱いできた私は、寝室で待つスゥに声を掛けた。
 今の私は、下着を穿いてない。ブラも取ってきた。だから薄いシャツが張り付いた胸は微妙に透けてるし擦れるし、風の抜ける感覚に慣れなくて、無駄だとわかっててもスカートの端を押さえずにはいられなかった。
 手が震える。無意識のうちに腿を擦り合わせ、恥ずかしさに耐えながら、スゥの視線を甘んじて受ける。
 これが今回の“お願い”――の、一端。
 おいで、と無言でベッドに座るスゥが呼ぶ。
 私はスカートから指を離し、足下で膝立ちになって、ズボンのホックを外した。ジッパーも下げ、腰を浮かせたスゥに合わせてそろりとトランクスを少しだけ下ろす。
 見慣れた、どころか挿れ慣れたそれは、既に準備万端だった。いや、布越しに膨らんでるのはわかってたけど。

「やる気満々だ」
「期待だってするさ。ミヤはどう?」

 その問いには答えず、私は立ち上がってスゥに背中を向けた。
 スカートの後ろを邪魔にならないようつまみ、ゆっくりとお尻を落とす。ゆっくり。不安半分、悔しいけれど期待半分で、心臓がドキドキしてる。

「ふぁ……」

 先端が触れた。微かに聞こえる、水っぽい音。
 何も阻むもののない私の入口が、スゥを飲み込んで、くわえ込んでいく。中で柔らかい襞が蠢いたのを感じた。私とは別の生き物みたいに、けれど確かに私の意思に合わせてスゥのモノを奥へと導く。
 根元が見えなくなり、私はスゥに座る形になった。お腹の辺りにある違和感。いつもよりちょっと深い。

「そっちも充分乗り気だね」
「……どうせやるなら、楽しみたいもん」
「ありがとう。そういうところも好きだよ」

 恥ずかしげもなく言い放って、スゥは私の膝裏に腕を回した。
 密着した結合部の隙間から、まだ粘り気の弱い愛液が溢れる。そのむず痒さに構わず、私を抱えたままスゥが直立した。途端、ずぶりと肉棒がさらに深く沈む。
 全身を走る快感に、堪え切れない声が喉から漏れた。
 視点が高い。私を支えてるのはスゥの両手だけで、それもわざと押さえを緩くしてるのか、酷く不安定だった。

「行くよ」
「ん……優しく、おねがい」

 あんまり効果はない気もするけど、一応言っておく。
 案の定スゥは明確に答えず、微妙な笑顔で頷いて、この格好で歩き始めた。
 一歩を進める毎に、振動が響く。
 スゥの足運びに合わせて身体が揺れ、結合部が離れたかと思えば、気を抜く間もなく下から突き上げられる……というか、私の腰がすとんと落ちて肉棒を飲み込み直す。
 騎乗位に似てるけど、あれよりもっと私に自由度がない。
 始める前から結構出てた潤滑油は、ちょっと動いただけでもうとろっとろになってこぼれている。繰り返される抽挿で粘つきを増し、私とスゥの間でぱちゅんぱちゅんと派手な音を立てていた。

「あっ、は、んく……ふぅっ、あ、ふぁ、っ」

 膝裏を乗せたスゥの腕は、スカートの前を持ち上げている。腰が跳ねるのに同調してひらひら動きはするけれど、スゥがめくってるせいで、正面から見れば私の下腹部は剥き出しだ。視線を下にやると、今も半分ほど露わになった肉幹が私の中に入るのがわかった。
 泡立ち白く濁り始めた愛液が、弾けて飛び散る。
 ぐちょぐちょの股間。心臓の鼓動が早くてうるさくて、貫かれるほどに私は疼く。もっと欲しいと思う。いつもスゥにされてるように、激しく責め立ててほしいと思う。
 真っ昼間からこんなことをしてる背徳感とか、誰が聞いてるかわからない、偶然が重なって見られちゃうかもしれないっていう不安や羞恥心。そういうものが全部スパイスになる。
 何だかんだでスゥは手回しがいい。玄関は鍵を掛けてるだろうし、部屋中の窓もロックしてカーテンでぴっちり閉めてる。心配する必要はない。けど、今の情けない格好が――両足を大きく左右に開かれ、赤ちゃんみたいに抱えられて、スゥの為すがままになってる、この状態が。
 どうしよう。
 気持ち良くて、たまらない。
 調教されちゃってるなという自覚もある。
 でも、やっぱり私はスゥから離れられないのだ。
 喜んでくれるならいいかな、なんて。
 そう思わせる辺り、本当にスゥは性質が悪い。

「お風呂までね」
「ん、わか……っ、て、る」
「ミヤ、別にそんな声我慢しなくても大丈夫だよ。できればもっと可愛い声が聞きたいし」

 乗ってやるもんか、と言いたかったけど、口に出す余裕は全くなかった。スゥが奥に届けば、逃がすまいとばかりに膣がきゅうきゅう締まる。うねり、密着する肉襞から伝わるスゥの熱と硬さ。
 私の身体は、他の誰よりスゥを覚えてる。
 だらしなく蜜を垂らして、ぐちゃぐちゃにとろけた下の穴が、ひっきりなしに水音を鳴らす。
 廊下までは我慢できた。
 居間のテーブルをぐるりと一周し、ソファの前で立ち止まったスゥは、点いてないテレビと向き合って、私の両足を一層高く掲げる。
 灰色のモニタに写る、互いの姿。
 顔を真っ赤にして、緩んだ表情の自分がいた。
 薄めの茂みもスゥのズボンも、愛液に濡れて張り付いてる。開かれた足の間、晒け出された秘裂はひくひく震えて、嬉しそうにしている、ように見える。
 ぞわり、と背筋を何かが走った。
 頬の熱が増す。身体の火照りが強くなる。加速した胸の弾みが私を高みへと押し上げる。

「いいよ。一回イこうか」
「あ、まっ、ふあああああぁっ!」

 耳元で甘く囁かれた瞬間、スゥが私の膝裏に掛けていた力を抜いた。
 腰から落ちる。埋まっていた肉棒が最奥を激しく突き上げ、削り、その苦痛とも快感ともつかない衝撃が、私の意識を流した。
 あたまのなかが、まっしろになる。
 忘れていた呼吸の仕方を思い出したのは、たぶん五秒もしないくらいの後。怖気にも似た痺れはまだ残っていたけれど、気絶するのだけは避けられた。
 口端からこぼれた涎を舌で舐め取る。
 荒れた息のまま、私はせめてもの抗議としてスゥを恨めしく睨んだ。勿論、柳に風。返事代わりに耳を甘噛みされて、すぐに表情が保てなくなった。
 
「ま……まだ、終わらないの……?」
「もう少しもう少し。ゴールはお風呂だって言ったよね」
「言ってた、けどぉ……んあっ、は、やぁ……」

 決して私は軽くないのに、スゥは平然とまた歩き始める。
 ソファに雫が跳ねないよう通り過ぎ、焦らすように速度を緩めて居間と廊下の中間で一旦止まる。小刻みに襲い来る気持ち良さ。治まらなくて苦しい。苦しいのに、もっと欲しい。
 開いた口は閉じられなくなって、膣口を締めることさえ忘れていた。既に一度、スゥは射精してる。蓋をし切れず隙間から抜けてきた精液が、白く濁った蜜と共に流れ出す。
 やがてスゥの足が洗面所の敷居を踏んだ。些細な段差さえ、今の私には強過ぎる刺激の素だ。一際重い突き上げに、またイく。小さいのも含めれば、もう何度目か覚えてない。
 私の膝裏に回った右手で、スゥがお風呂の扉を開ける。
 できた隙間に横向きで身を入れて、ほんのり湿った床に裸足を付いた。

「ミヤ、着いたよ」
「ふぇ……あ、う、スゥ……」
「どうする? ……ここでやめる?」

 それは、最初から用意してた言葉だったんだろう。
 絶対私が頷くわけないんだって、確信した上での問い。
 ああもう、すっごく悔しい。
 いつもみたくそんな思いを抱きながら、私はせめてスゥの顔が見たいからと、湯船の縁に手を付いて腰を捻った。
 ……やっぱり、向かい合う体位の方が好きだ。





 /11

 最近、窓の外から猫の鳴き声が聞こえる。
 夜な夜な何かを求めるように長く響く声は、実家にいた頃もある時期になるとよく耳にしたものだ。
 発情期。つがいを探してにゃあにゃあ言うのはいいけれど、自由気ままな彼ら、あるいは彼女らは全く時間を選ばない。ぴっちりカーテンまで閉めていても、ベッドに転がる私の聴力は微かなそれを捉えてしまう。
 そして困ったことに、どうも音があると眠れないのだ。一回寝付ければ朝まで起きないんだけど、目を閉じると鳴き声がするりと滑り込んできて、頭の中でぐるぐるし始める。耳栓をして勝率は五分五分といったところ。ちなみにスゥはそういうのがまるで気にならないタイプ。ずるい。

「うぅ……。近くにいたら水でも掛けてやりたい」
「残念ながらすぐそばって感じじゃないけどね」

 今日も二匹くらいが合唱してて、しかも途中から声色が変わった。たぶんにゃんにゃんしてる。
 今のところ私は一度も現場を目の当たりにしたことがないけれど、不思議と「気持ち良さそうな声だ」とはわかるもので。この辺は経験則、なのかもしれない。人間だって猫だって、交わること自体に差はないし。
 ないんだけど。
 つい、こう、こないだのアレでアレなことを想像しちゃうというか。
 ますます眠れない。

「うー、スゥ、ちょっとじっとしてて」
「はいはい」

 熱の灯った頬を隠すように、私は身体を足の方にズラした。もぞもぞしながら、掛け布団を頭まで被る。
 真っ暗な中、手探りでスゥのパジャマの裾を掴み、胸元っぽいところに顔を寄せる。むわっとした熱さと、薄いスゥの匂い。触れるか触れないかの距離に頭を置いて、全身を丸めた。
 この、こどもみたいな姿勢でいるのが、実は結構好きだ。
 されるがままでいてくれるスゥに安心して、私は目を閉じる。
 これで勝率は八割。
 残りの二割は、逆にドキドキしちゃって余計眠れなくなる、ってパターン。
 今日のところは前者でいけそうだった。





 /12

 スゥが猫を拾ってきた。
 雨の日の朝、どうやら散歩をしてきたらしく、ラフな薄着の格好で、しかも何故かびしょ濡れになって帰ってきて。
 その両手の中には、ぶるぶる震える子猫が一匹。
 物音に気付き、玄関まで迎えに行っておかえり、と言いかけた私は、二重の驚きで固まった。
 いやもう、どうしろっていうんだろう。とりあえずタオルか。

「……ちょっと待ってて。バスタオル取ってくる」
「うん、お願い」

 全く悪びれない笑みを浮かべて頷いたスゥに何と言ったものかと、湧き出る疑問や文句を整理しながら、洗面所から目的の物を引っ張り出す。それと、子猫用の小さいタオルも。
 玄関でぽたぽた雫を落とすスゥは、子猫を抱えてるから手が放せない。なので仕方なく私がスゥを拭くことになった。
 濡れてぺったんこになった髪をわしゃわしゃして、たっぷり水気を含んだシャツとズボンを一枚ずつ脱がせる。一緒に持ってきたビニール袋に衣服を突っ込み、冷えた上半身、腿、足と足裏の順に水滴を吸わせていく。
 その間にスゥはハンドタオルで、優しく子猫を拭いていた。鬱陶しそうに睨んでるけど、抵抗するほどの気力はないらしい。しなった髭が何だか弱々しかった。

「はい、おしまい。風邪ひかないうちにお風呂行ってくること」
「ミヤも一緒に」
「入りません」
「残念」
「全然そうは見えない」
「……残念」
「今更表情作られても……」

 やっぱりと言うべきか、本気じゃなかったスゥは尾を引くことなく子猫を連れていった。あの変わり身の早さは時々見習いたくなる。
 一人と一匹が身体をあっためてる間に、台所でお湯を沸かしておく。ついでに共用のノートパソコンで子猫が飲めるものの調査も。
 コップをふたつと深皿をひとつ。
 前者はパック物のインスタントコーヒーで、スゥのはブラック、私のにはお砂糖一本とミルクを少し。
 子猫の方には、軽く火を通した牛乳を注いだ。見た感じ、今にも死にそうなほど弱ってるわけでもなさそうだったから、たぶんこれでお腹を壊すこともないだろう。
 まだ朝食も済ませてないので、バターを塗ったパンを焼く。これも二人分。
 ちょっぴり古い型のトースターが出来上がりの音を立てたところに、スゥと子猫が戻ってきた。さっぱりしたような顔をしたスゥの足下で、子猫はご機嫌斜めな様子だった。どんな洗い方をしたんだろうか。
 まあ、それでも大人しく付いてきてる辺り、多少は警戒を解かれてるのかもしれない。
 テーブルの下に皿を置くと、しばらく躊躇うような素振りを見せて、それからおずおずと中の牛乳を舐め始めた。
 私とスゥもちょっと遅めの朝ご飯。
 一緒に「いただきます」をして、パンをさくっと一口。

「んく……、で、スゥ、この子どうするの」
「雨が止んだら解放してあげる」

 ひょっとしたらうちで飼うって言い出すんじゃないかと思ってたから、予想外の答えに私は驚いた。
 一軒家だからペット禁止でもないし、子猫一匹の世話ができないほど家計が切羽詰まってもいない。
 けれど。

「僕はミヤで手一杯だからね」
「人をペットか何かみたいに……」
「同じ屋根の下で暮らすのに違いはないよ」

 ……少しだけ、ほんの少しだけ考えた。
 私が、あるいはスゥが。
 子猫の相手をするようになれば、その分ふたりの時間は減る。
 それは、嫌だな、と。
 
「スゥ」
「ん?」
「ならさ、どうして連れてきたの?」

 真っ黒なコーヒーに口を付けるスゥに、私は疑問を投げかける。

「何となく、気が向いたからかな」
「……それだけ?」
「うん。それだけ」

 どういう経緯で拾ってきたのかはわからないけど、親から離れたこの子が一人で生きていけるようには見えなかった。
 でも、そんなこと承知でスゥは言ってる。
 たった半日助けられても、明日にはまた飢えて、近いうちに死んでしまうかもしれない。私にできるのは、誰か親切な人に拾われることを信じるくらい。
 自分勝手で、ずるい。けど、そうやって私達は生きてる。
 気まぐれで屋根を貸すのも、ご飯をあげるのも、きっと。
 スゥなりの優しさで、ずるさだ。

「……雨、今日中に止むのかな」

 下で子猫が初めて鳴いた。
 このまま夜まで晴れなければいいな、と、そう思った。





 /13

 それは昼過ぎ、ソファでスゥの膝に乗って一緒に本を読んでいる時に襲ってきた。
 最初、急に目眩がしたんだと思ったけど、すぐに全身で揺れを認識して、地震が来たことを知った。しかも、かなり大きい。
 周囲の置物やテレビがガタガタと小刻みに動き始め、台所の方でガラスの割れる音が響く。反射的にスゥの膝元から抜けようとして、

「駄目。じっとしてて」

 上から覆い被さるように押さえつけられた。
 スゥの両腕が肩を渡り、私のお腹辺りで交差する。胎児みたいな格好でスゥにすっぽり包まれて、触れ合う肌の火照りと、幾分速い心臓の鼓動が伝わってくる。
 珍しく、スゥが緊張してる。
 家全体を軋ませる揺れは一分ほど続き、ある時を境にふっと治まった。それでもスゥはしばらく離してくれなくて、たぶんたっぷり五分近く、私達はソファの上で縮こまっていた。
 ようやく解放され、床に足を着ける。中途半端な姿勢でいたからか、直立した際に少しふらついた。慌ててスゥにしがみつく。

「大丈夫?」
「なんとか」

 交わす言葉も短い。
 さっきから心臓がスキップしそうな勢いで跳ね上がっている。
 不安を胸に抱いたまま、二人で被害状況を確認することにした。
 まずリビング、ちょっと物がいくつか倒れてるけど、概ね問題なし。次にキッチン、食器棚の扉が開いて、何枚か皿やグラスが落ちちゃってる。破片が広い範囲に飛び散って、かなり危ない。とりあえず片付けは後、次。
 寝室……は大丈夫。元々壊れ物は少ない。箪笥やクローゼット、押入れの中も一通り見て、無事なのをチェック。
 洗面所とお風呂場は、棚に置いてたボトルとかが床に転がっていた。さっと戻しておく。あとはトイレ、も平気。
 割れた食器を除けば、まあ大した被害はなかった。
 リビングに戻ってテレビを点けると、ニュースで地震速報が流れていた。うちの地域で震度5弱。ここまで大きいのは、久しぶりかもしれない。

「はぁー……なんか、安心したら力抜けちゃった……」
「ミヤは座ってていいよ。割れ物の処理はこっちでやっとく」
「ううん、私も手伝う。結構数多そうだし」
「なら掃除機持ってきて。中のゴミは一回空にして」
「了解」

 スリッパを履き、注意深く床を観察しながら、私は掃除機を取りに行く。その間に使わないチラシを大量に運んできたスゥが、大きめの破片から拾い上げて手際良く包む。
 目に見える破片を全て回収した後、私の方で丹念に掃除機を掛けた。じゃりじゃりじゃり、と耳障りな音を立てて細かいガラスの欠片が吸い込まれる。取り残しがあると後が怖いので、やり過ぎなくらい執拗に。
 各自でゴミをまとめた後は、何が割れたかの確認。幸いお気に入りの皿は無事だったけど、手前のよく使うやつがおしゃかになってて、結構凹んだ。

「また今度買ってこなきゃなあ……」
「でも、ミヤが何ともなくてよかった」
「スゥこそ。いきなりあんなことしたからびっくりした」
「とっさにね。守らなきゃって思って」

 ソファに戻り、今度は並んで座って、スゥの肩に頭を預ける。
 まだ少しふわふわしてるようで、実感が湧かない。けれどスゥがいてくれるから、不安な気持ちにならずにいられる。それは確かだった。

「また地震来るかな」
「どうだろう。来ないといいけど」
「スゥは怖い?」
「あんまり。ミヤがいるし」
「私も。スゥがいるから」
「……読書、続けようか」
「うん」

 とりあえず。
 今日はずっと離れないでいよう。





 /14

 我が家には、同じ色のベッドシーツが三枚ある。
 何故そんな無駄に多いのかというと、まあ、その、結構頻繁に汚してしまうからで。お風呂とかソファの上とか、場合によっては廊下なんかでもしたりするわけだけど、やっぱりベッドであれこれ、な回数が一番なのだ。
 昨日もそうだった。
 誘ったのはスゥの方。寝る前にちょっと運動しようか、みたいな感じで手際良く脱がされて転がされて、あとはもう完全に向こうのペース。乗った私も悪いとはいえ、三回張り切ってくたくたになってから眠った。
 ……勿論シーツはぐっちょぐちょでした。
 一度固まっちゃうとなかなか落ちないんだよなあ、と思いながらも、起きてすぐに手洗いをして、衣服他諸々とは別に洗濯する。その間に替えのシーツをベッドに被せ、暢気に朝食を用意していたスゥの元に戻った。

「牛乳?」
「喉乾いたから多めで!」
「はいはい」

 使い慣れたコップにとぽとぽ白い液体が注がれていくのを眺める傍ら、テーブルに置かれていた皿から焼きたての食パンを取って一口。薄く塗られたバターの風味とパンの香ばしさが鼻に抜ける。
 小さな欠片をむぐむぐしつつ、スゥから渡された牛乳を一気に半分ほど飲み、私は遠い窓の外を見た。

「よりにもよって……」
「しょうがないよ。昨日の予報じゃ曇りだったし」
「降水確率は微妙って言ってなかった?」
「言ってたね」
「………………」
「二割くらいは僕のせいだって顔だ」
「四割」
「残りの六割は?」
「私が三割で、神様がもう三割」
「こういう時は全部神様のせいにしちゃっていいんじゃないかな」

 全くさり気なくない責任転嫁をするスゥへと、わざとらしく聞こえるように溜め息を返す。
 普通の洗濯物なら家の中でも干せるけど、ベッドシーツくらい大きいものとなるとそうもいかない。
 ……それに、やっぱり干したお布団からは、おひさまの匂いがしてほしいというか。

「あ、洗濯終わった」
「乾燥も?」
「うん」
「皺は二人で伸ばそうか」
「了解、っと」

 さっくり設定を済ませ、再びごうんごうんと動き始めたのを確かめてから、私は寝室に向かった。
 シーツ替えたてのベッドに飛び込み、顔を埋める。
 ほとんど霧散しちゃってるけど、まだ微かに残ったおひさまの匂い。

「……ミヤ、また寝る気?」
「乾燥機止まったら起こしてね」
「しょうがないなあ」

 食器を片付けてこっちに来たスゥが、寝室の窓を少しだけ開ける音を聞く。湿った風と雨の匂いが吹き入って、目を閉じた私の頬をくすぐる。
 洗濯物が外に出せないのは憂鬱だけど、雨の日も嫌いじゃない。
 すぐ近くにスゥを感じながら、私は二度寝を決め込んだ。
 雨の降る日は、緩やかな日。





 /15

 一口に濫読派といっても、大抵ある程度の偏りがあるものなんだろうけど、スゥに関してそれは当てはまらない。
 節操なし、なんて言葉が似合う感じで、様々なジャンルの小説を始めとして、児童書、絵本、学術書、エッセイ、ノンフィクション物、変わったところではファッション雑誌なんかもよく読んでいる。
 住む場所を探した時、徒歩圏内に図書館があることを必須条件にしたくらい。ちょっとでも時間が空くと、居間のソファに座って何かしらの本を開いているのだ。
 そんなわけで、今日のラインナップも、見事に統一性がなかった。
 テーブルの上に持ってきた数冊を重ね、上から取って目を通していく。スゥの読書ペースは速く、よっぽど厚かったり密度が濃かったりしなければ、一時間前後で一冊片付けてしまう。

「んー……ちょっとトイレ」

 三時を回った頃、読み差しの本に栞を挟み、スゥがソファを離れた。横でごろごろうとうとしていた私は、ぼやけた頭で「いってらっしゃーい」と呟き、何とはなしに適当な本を引き寄せる。
 我ながら横着で行儀悪い自覚があるけれど、その辺は今更な話だ。首に掛かる髪を指で落とし、仰向けの姿勢で真上に掲げた表紙を眺める。

「『迷った時はここに行け! 全国温泉二十選』……温泉行きたいのかな」

 そうひとりごちてみたものの、まあ他意はないんだろう。
 基本的にスゥは遠出を好まない。厭世的――とは違うけど、人が集まるところに行きたがらないというか、普段から静かな方がいいと公言して憚らない。
 仮に旅行をするとしても、雑誌に載っているような場所はそれなりに来客があるわけで、確実にスゥは嫌がる。……ついでに言えば、私もあまり他人と触れ合うことは好きじゃないんだけど。
 とにかく、宿泊先を探すつもりで読んでたんじゃないことは確かだ。いつも通り、適当に持ってきたものだと思う。

「……温泉かあ」

 ぺらぺらと流し読んでみる。
 地方別に何件かずつ、かなり詳細な形で情報が記されていた。温泉の種別、アクセスのしやすさ、ホテルや旅館の雰囲気、食事の内容、近場にある観光地――ああ、お肉とかお刺身とか、写真で見るとどうしてこんなにおいしそうなんだろうか。寝起きで中途半端に小腹が空いてるのもあって、くぅ、と小さな音が鳴る。
 それに温泉も。
 気持ちよさそう。

「ミヤ」
「ふへっ!?」

 いつの間にか、スゥが戻ってきて私を見下ろしていた。
 妄想に耽ってたところに、冷や水を掛けられた気分。思わずびくっと身体が跳ねた。
 恥ずかしさで赤くなった頬を隠すように、雑誌で視界をシャットダウン。うー、と唸りながら、そろりそろり雑誌を横にズラしていく。
 蛍光灯の白光を遮る、薄く影になったスゥのにこやかな顔。

「……どこから見てた?」
「温泉かあ、って呟いた辺りからかな」
「あうぅ……スゥのいじわる……」
「褒め言葉だね」

 なんてのたまいつつ、私の手から雑誌を取る。
 それを両手でぱたんと閉じ、

「温泉行きたいの?」
「え、いや、別に……スゥも嫌だろうし」
「正直になってくれたらさっきのは忘れてあげる」
「絶対嘘だ」
「おまけで夕食のおかず一品プラス」
「……行きたいです」
「よくできました。じゃあちょっと探しておくよ。貸し切りで入れるところかな」

 点けっぱなしでテーブルに置いてあったノートパソコンを引き寄せて、早速調べ始めた。
 ――いじわるだけど、その分スゥは、私にすごく甘い。





 /16

 世の中には“メシマズ”なんて言葉があるらしいけど、私達二人には無縁の単語だ。お互い隔日で真面目に料理をしていれば、腕前だって上達する。
 始めた頃こそレシピ片手に手探りで作っていたものの(ちなみにスゥは出会った時から料理上手だった)、今では鼻歌混じりで大根のかつら剥きができるくらい。
 スゥは和食が得意だから、なるべく被らないように(ついでにこっちがヘコまないように)、私は洋食のレシピを増やした。
 そんなわけで、昼過ぎに軽いリクエストを取ると、夕方までには足りない分の買い物を済ませて、調理に取り掛かることになる。
 今日は私の番。
「ハンバーグがいいかな」という可愛い要求(意外にスゥは子供舌だ)に従い、それに合わせて野菜を多めに用意した。
 ソファで静かに本を読むスゥを時折チラ見しながら、ハンバーグ用のたまねぎをみじん切りに。とんとんとんとん、と小気味良い音が響き、勝手に私の涙腺が緩む。

「あうう……」

 一応水に通しもしたけれど、何度やってもたまねぎのこれには慣れない。
 痒痛い両目を一旦洗い、みじん切りの作業を再開したところで、私は再び浮かんだ涙に気を取られた。
 それがいけなかった。

「っ、た」

 落とす位置のズレた包丁が、薄く指の腹に食い込んだ。
 鋭い痛みに手が止まる。包丁は普段からよく研いでいる分、切れ味も良い。張り詰めた皮膚がぱつんと割れて、浅くない傷口から血がこぼれる。
 たまねぎを血塗れにしないよう、慌てて切った左手を避けると、不意に手首を掴まれた。
 振り向く間もない。
 伸ばした指がぱくりとくわえられ、生温かい感触が傷口をなぞる。

「あっ、く、スゥ、染みるっ」
「んぐ……はあんひへ」

 たぶん「我慢して」って喋ったんだろうけど、唇と舌が指先を滑ってくすぐったくて、頷くだけで精一杯。
 スゥの舌は、傷の周りに滲んだ血を舐め取ると、そのまま切り痕を塞ぐようにして、指の腹をこそぐ。
 たっぷりの唾液をまぶされ、熱いぬめりが私の指を包んだ。痛みは滲むようなものに変わり、それも徐々に治まっていく。
 少しずつ、少しずつ、丁寧に。
 微かに浮かぶ血を吸って、スゥは顔を離した。
 爪の先端から白い糸が伸びて、すぐに切れる。
 傷口の周りが、軽くふやけていた。

「絆創膏取ってくるね。指は水で洗っといて」
「え、あ……うん」

 何事もなく薬箱へと向かうスゥに、私は声を掛け損ねる。
 ……また、舌遣いが上手くなってた。
 それで傷が治りやすくなる、なんてことはないけれど、実は気持ちよかったと仮に告白しようものなら、間違いなくスゥは意地の悪い笑みでこっちを見てくる。
 だから私も、何も言わない。
 今度スゥがヘマやったら絶対仕返ししてやる、と密かに決意だけはしておいた。

「はい、指出して」
「いいよ、自分でできるって」
「タオルで拭いてもまだちょっと濡れてるだろうから、僕がやった方がちゃんとできると思うよ」
「………………じゃあ、はい」
「ミヤは可愛いね」
「あんまり嬉しくない……」





 /17

 二人暮らしをする以上、少なくともどちらかは料理ができないと話にならない、と思う。店屋物や外食で済ませる選択肢も、まあお金のある人なら取れる選択肢なんだろうけど、私もスゥも結構貧乏性なので、自炊にこだわっている。
 お互い普通においしいご飯を作れる程度には慣れてるから、毎日の食事で困ることもない。とはいえ、私とスゥの間には浅いようで深い溝が存在していて、どっちの方が料理が巧いかと言われれば、満場一致でスゥに軍配が上がるのは間違いなかった。
 何より、スゥは料理が好きだ。別に私だって嫌いじゃないし、作ってる時は結構楽しんでいるけれど、趣味ってほどではない。あくまでそれは、生きるために必要なこと。
 だからこうして、キッチンでこころなし楽しそうに両手を動かすスゥを見ていると、毎度のことながら感心してしまうのだ。
 ボウルの中でよく混ぜた生地を、熱したフライパンにゆっくり広げる。淡いミルク色が円の形を作り、ふつふつと小さな泡を膨らませる。
 充分に片面が焼き上がった頃、仄かな甘い匂いが漂い始める。木べらで円形を整えながら、鮮やかな手並みでスゥが生地を引っ繰り返す。焼き目は綺麗なキツネ色。
 反対の面も同じようにして、出来上がったそれをフライパンから直接皿に乗せた。熱の残るフライパンと木べらをさっと洗剤で洗い流し、棚から取り出したナイフで半分に。
 だいぶ前に用意していたバターを一切れずつ上に置き、はちみつを格子状に掛ければ完成。

「はい、どうぞ」

 なんて言いながら、フォークも持ってきたスゥは私の隣に座って、じーっと見つめてくる。
 その視線に負けたからってわけじゃないけど、私は両手を合わせ、いただきます、と告げた。
 三時のおやつ、ホットケーキ。
 時折気まぐれのように、こうしてスゥは手作りのおやつを振る舞ってくれる。
 それは一般的に女性がやることだと思うんだけど、こと甘い物に関しては、私よりスゥの方が何倍も詳しいし上手なのだ。
 当然、悔しい気持ちはある。乙女度的な何かに劣ってるようで落ち込む時もある。でも、スゥのおやつはおいしい。おいしいから仕方ない。
 いつも通りの自己弁護を済ませて、半分になったホットケーキの手前側をさらに切り崩す。左手のフォークが表面を押さえ、その横にナイフが食い込む。
 切れ目から立ち昇る湯気が、はちみつの濃い匂いを拡散させた。
 緩やかに溶けるバターと、粘ついた半透明の蜜が混じり合い、じわりとホットケーキに染みていく。それを確かめながら、食べやすいサイズにした一切れを口に運んだ。

「ん……っ」

 舌に絡む濃厚な甘みと、ふっくらした生地の風味、そしてバターの絶妙な塩気。思わず浸っちゃうほどにおいしい。
 そんな風に幸せな気持ちで飲み込んだところに、笑みを深くしたスゥがちょんちょん、と肩を指でつついてきた。

「どう?」
「おいし過ぎて太っちゃいそう」
「多少なら肉付いても気にしないよ?」
「……私が気にします」
「半分はこっちに頂戴ね」

 わざわざ最初に分けたのに、結局私が食べさせることになった。
「作ってあげた分の労いはしてほしいな」なんて言われたら、反論する材料はないわけで。
 あと、夕食はいつもよりちょっと少なめでした。
 おやつのある日は、だいたいそういう感じ。





 /18

 ついさっきまで、洗面所の隅っこに追いやられていた古いアナログの体重計が、ぎしりと音を立てた。
 まず片足。次いでもう片方をゆっくりと乗せ、私は動きを止める。
 表示パネルの針が徐々に揺れを狭め、やがて一点を指す。
 その数値を見て、一瞬目眩がした。
 お風呂上がりでのぼせたからじゃない。軽く湯気を上げていた身体がすぅっと冷えていくような錯覚と共に、気付けば床に手を付いていた。

「ほんとに太った……」

 一ヶ月前にも計ったし、間違いない。グラム単位で右往左往するほど繊細な乙女心はもう随分前に捨てたけど、さすがに四桁はいただけなかった。
 誤差と侮るなかれ、油断して放置すれば、肉なんて見る見るうちに付いてくる。以前それで3キロ増えて、泣きながらダイエットした記憶がある。
 たかが1キロ、されど1キロ。
 ここでわかってよかった、と思うべきだろう。

「……しばらくおやつは我慢、かな」

 勿論裸のまま落ち込み続ける趣味はないので、体重計を再び隅に寄せ、新しい服に着替える。パジャマのズボンを穿いた時、僅かながらお腹辺りがきつく感じて、危機感をさらに強めた。
 夜の我が家は酷く静かだ。洗濯機の回る音を背に寝室へ。ベッドで横になりつつ本を読んでいたスゥは、近付く私を認めて顔を上げ、柔和に目元を緩ませた。

「髪、乾かし忘れ?」
「え? ……あ」

 言われて触れると、明らかに湿っている。
 ドライヤーの前に体重計を引っ張り出したからか、すっかり頭から抜け落ちていた。洗面所に戻ってやってこようと思ったけれど、スゥがベッドをぽふぽふ叩いて招くので、まあいいかと諦める。
 部屋の手前側、気怠げなスゥの隣。
 そばに寄ると淡く男の匂いがする。私は髪に癖が付かないよう、そっと後頭部を枕に置いて仰向けになる。
 天井を見る視界に、細い指が割り込んだ。
 お風呂から上がってもう随分経つスゥの手のひらが、額に触れる。程良い冷たさ。そのまま指は髪を優しく梳き、絡め、やがて手だけでは我慢できなくなったらしく、鼻を髪に埋めてくる。

「ん、シャンプーとミヤの匂い」
「スゥって匂いフェチなところあるよね」
「否定はしないかな」

 なんて言って、私を影が覆った。
 唇をなぞるものがある。
 確かめるような、人の熱。

「……今日はいつまでするつもり?」
「ミヤの髪が乾くまで」
「あのね、スゥ、……もう少し、長く」
「了解。じゃあ、ミヤが体重気にならなくなるくらい」
「気付いてたんだ……」
「ミヤのことだから、ね」

 そうして啄まれて、あとは為すがまま。
 翌日、目標の半分近く体重が減っていた。
 本当に、ダイエットにはいいのかもしれない。





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