夏から秋に変わる頃。
連日降り注ぐ強烈な陽射しが作り出す地獄のような暑さも、九月に入ると共に少しずつ和らいでいき、 今度は颯爽と秋雨前線とやらが現れて気まぐれに外を水浸しにする習慣を一年ぶりに思い出したのか毎日頑張っている。
おかげで今日も湿度が高く、けれどまだ過ごし難いというほどではない。

「ふぁ……」

寝惚け眼のまま、窓を軽く開ける。
冷たく湿った秋風が、少量の雨粒を引き連れて部屋の中に入り込んできた。
まだ、涼しいと感じる程度だが、あと半月も経てば寒くてやってられなくなるだろう。
少なくとも、夏の薄着では家の中でも辛い日が来る。
……寒いのは嫌いだ。かと言って暑いのも当然好きではなく、これで雨さえ降っていなければちょうどいい、と思う。
しかし世の中そう思い通りに上手く行くはずもない。祈って雲が晴れるなら、世界には祈祷師が溢れてしまう。

「…………じゃなくて」

嘆息。そんなことを考えている場合じゃない。
完全に平常モードへと移った頭は、食事と着替え、そして準備の要求を始める。
置き時計の針は七時十八分を指していた。まだ出発までに余裕があると見越し、行動を開始。
面倒だからパンでいいや、とオーブンにトーストを突っ込み、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。
その間に寝室から制服を回収。トーストが焼ける間に着替えは終わり、軽快な音が朝食の完成を告げる。
食べ切って顔を洗い歯を磨き、後は鞄に諸々の荷物を積み込めば、靴を履いて外に出るだけだ。
ジャムの類が見つからず、バターを塗ってからかじったトーストを食みつつ、俺は本日二度目の溜め息をついた。

全部、雨が悪いのである。
気分が憂鬱なのも、朝の時間が寂しいのも、全て。

学校へ行くまでの道程を思い、さらに気分は沈むのだった。











人間、一部の例外はあれどだいたいが大人になればなるほど雨を嫌いになっていくのだと思う。
都会に住んでいれば尚更で、服や靴は濡れる、自転車や自動車では視界が悪い、タイヤが滑る、酷くなると電車も止まる、 といいことなんてひとつもない。
これが例えば農家なら、適度に降ってくれないと米も野菜も育たないだろうが、 自然の追いやられた都会にそういった恵みは必要ないわけで。

でも、子供は違う。
初めて雨降る外に飛び出した時、心躍ってはしゃぐものだ。
お気に入りの傘を片手に、レインコートと長靴を着けて、水溜まりを元気に踏んでいく。
跳ね水を浴びても一向に気にせず、くるくると傘を回し、しとしと、ぽつぽつと聞こえる雨音に耳を傾けて、楽しそうに歩く、 そんな頃が自分になかったかと言われれば、俺はあったと答えよう。
今は忘れてしまった気持ちだけど、確かに昔の幼い俺は雨の日が好きで。
勢い余って長靴の中を濡らしても、頬に水が飛んできても、決して嫌だとは感じなかった。
だって、傘も、レインコートも、長靴も、晴れや曇りの日には持っていけなかったし着られなかったのだ。
だから雨の日が楽しみで、玄関に座って長靴を履く時にはいつもうきうきしていた。

……子供とはきっと、そういう生き物なんだろう。
普段と違う世界が楽しくて仕方ない、何も知らないから喜べる。
それは無知故のものじゃない。子供には、子供にしか見えない世界がある。大人になると忘れてしまう、色鮮やかな世界。

シェラちゃんは、まだ小学生になったばかりの子供だ。
俺とも、勿論マサ兄やクーさんとも一致しない、シェラちゃんだけの世界が見えているのだと思う。
そしてどんなに大人びていても、淑女たろうとしていても、やっぱり、根っこの部分は幼い女の子なのだ。

「兄様は、雨、好きですの?」
「うーん……正直あまり。洗濯物は乾かないし、外出が面倒になるし」
「随分現実的な話ですのね……」
「そういうシェラちゃんは?」
「私は、その……笑わないでくださいます?」
「勿論。言ってごらん」
「……最近、父様と母様に青い傘を買ってもらいましたの」
「うん」
「それとお揃いの、青い長靴も。私、それを持っていくのが楽しみで……」
「………………」
「こ、子供っぽいですわよね……って兄様、笑わないでって言いましたのに!」
「いや、ごめんごめん。でもシェラちゃんは子供だよ。子供でいいんだから、全然おかしくはないさ」

子供と大人を分ける明確な境界線は、年齢でしかない。
それは絶対的なもので、いつか誰もが子供の領域を抜けることになる。
逆を言えば、大人になるまでは子供でいていいわけで、そういう風に伝えようとしたのだが、

「………………」

何故不機嫌そうな表情を浮かべるんだろうか。
結局むすっとしたシェラちゃんをなだめるのに小一時間掛けたのが先日の話。
あそこまで臍を曲げるのは珍しくてかなり困ったのだがそんなことはどうでもいい。

要するに、彼女も雨が好きなのである。
好きだからこそ、喜々として外に飛び出し、そして―――― 見事に身体を冷やして風邪を引いた。
俺がちょっとした用事で出かけていた、土曜日の出来事だった。










傘の露を払い、傘立てに差し込む。盗まれるか間違えて持ってかれることもあるだろうが、別にビニール傘なので気にはしない。
ただ、ないと帰りは困る。雨が止みそうにないからだ。
他人の傘を失敬するような図太い神経は生憎持ち合わせていないので、その場合は泣き寝入りということになる。
まぁ、今できるのは祈るだけだろうか。勝手に攫うなよ、と。

階段を登り教室へ向かう。
時刻は予鈴の約五分前。室内には既に到着した生徒が溢れていて、当然なのだが、八割は机の上に何らかの冊子を広げていた。 だいたいは参考書、自分で記したノートを見る者もちらほらと。
思わず溜め息が口から漏れて、俺は苦々しい表情を隠しもせず自分の席に座った。

……何も学校に来てまでそんな頑張らなくても、と思う。
家に帰っても勉強、予備校や塾に行く奴も一人や二人じゃないはずだ。ならどこで休んでいるのか。
少なくとも俺は、自宅学習をそれこそ嫌になるほどしている分、学校ではあまり気を張るつもりがない。
だがそれも、自分勝手な考えだろう。学校でこそ真面目にやろうと考えてる人間だって、まあ俺の想像よりは多いに違いない。

高校三年生。受験シーズン真っ只中。
勿論俺も例に漏れず、大学合格を目標として必死に勉強中だ。
コーチは自他共に認める(大変癪だが)天才のマサ兄とクーさんの夫婦コンビ。
正直、俺さえしっかり取り組んでいれば大丈夫じゃないかと思っている。
何だかんだ言っても、あの二人のことは信頼しているわけで。
コーチが良ければあとは当人の努力次第だろう。
今は特別目指す夢、やりたいこともないが、親の要望もありとりあえず大学は行っておこうという結論が出たのが高二の二月頃。
ならば真面目にやるのは早い方がいい、と、以来ほぼ毎日ビシバシしごかれている。
結構きついが耐えられないほどでもなく、要するに問題はそこじゃない。

困ったのは、シェラちゃんに構う時間が目に見えて減ったことだ。
とはいえ不可抗力、彼女も納得してくれてはいるが、理屈で片づけられれば苦労はしないのが世の常。
以前のおよそ半分となった四人での夕食、その席では、心なしかシェラちゃんの元気もなく、 けれど気遣うと「平気ですわ」とばかりに笑って誤魔化すようになった。

事実だけを見れば、俺は悪くない。
寂しく思うのはシェラちゃんの我が儘で、我慢するしかないというのが大人の理論。
でも、俺は申し訳なく思うのだ。彼女が寂しがるのは確かに俺の所為だから。
だからその分、二人でいる時はできる限り一分一秒を大切にしてあげたい、と思う。
結局、こっちだって構われて嬉しいのだ。寂しさを感じるのは、俺も同じだった。

「…………季節の変わり目、だからなぁ」

こういう時期は気温の上下差が激しく、体調を崩しやすい。
きっちり予防をしておけば確率は下がるが、それでも絶対というわけにはいかないだろう。
シェラちゃんが風邪を引いたと知らされたのは、昨日の夜のこと。
それを証明するかのように、今朝、可愛らしい声を耳にすることはなかった。
いつもなら、目覚めると布団の近くにシェラちゃんが立っているからだ。
そしてまだ寝惚けている俺に「おはようございます、兄様」と元気に挨拶してくれる。
なのに、今日はそれが聞けなかった。彼女は自室のベッドで寝込んでいるのだから。
朝は向こうに寄らず直接学校まで来た。多少の時間はあったが、顔を出さない方がいいと判断した。
どうせ様子を見に行ったとしても、いられるのは十分程度だ。それでは短過ぎる。

「帰りまでには……止まないよな」

幸いと言うべきか、今日は選択教科の問題で午前授業のみだった。
つまり、早く帰れる。早く帰れば、

「シェラちゃんの容態を確かめられる」

心配ならその種を無くせばいい。
このまま勉強しても集中力が途切れるだろうし、なら懸念事項はさっさと消化するべきだろう。
そんな感じで理論武装は完了。で、そこまで考えてしまうとどうにも焦れてしまう。
三時限目、半ば。教師の姿はなく、自習。
次の四時限目も同じようなものだった。

……物凄く長く感じた。










弁当は持ってきていない。
昼で終わりとわかっているのに、わざわざ学校で飯を食うこともあるまい。
朝より幾分弱くなった雨降る道を、復路はこころなし足早に歩く。
ぴちゃり、ぴちゃりと水が跳ね、特に踵を上げる際、靴下やズボンの裾を容赦なく濡らす。
正直鬱陶しいが、家に帰るまでの辛抱だ。マンションに辿り着けば雨は入ってこないし、着替えもできる。

……雨を見ると憂鬱を覚えるようになったのは、いつからだろう。
厚い雲の灰色に気分が引っ張られるからか。肌に貼りつく服の感触と湿気が嫌だからか。
思い出せない。いつの間にか、としか言えない。
大人に近づくと、煩わしく感じることが増えるんだな、と思う。
色々なことが、面倒になってくるんだな、と。
そして、シェラちゃんにはそういう思いをしてほしくないな、とも。

「……ん、もう着いたか」

気づけばマンションの入口だった。
『呼』のボタンとよっつの数字を打ち込むと、自動ドアが開く。
エレベーターに乗って押すのは最上階。鈍く響く上昇音が続き、止まり、開扉する。
ふたつある扉のうちひとつを目前にし、鍵を取り出し差し込んで、捻り、抜き、ノブを回して引けば玄関だ。
無言で靴を脱ぎ移動しながら上着のボタンを外していく。濡れたものから優先的に、洗濯機へと放り込んでおいた。
私服に着替え、鞄を机の上にどさっと置いて、よし、と呟く。
俺が持つ鍵は合わせて三種類だ。この部屋のものと実家のもの、最後に隣の部屋のもの。
二人は確か今日も仕事で外出、となると当然シェラちゃんは一人。まず間違いなく鍵は閉まっている。
その予測は、サンダルを足に引っ掛けて隣の玄関先、軽いノックと共にドアを引いた時当たっていたと知った。

かちゃり。
チャイムは鳴らさない。寝ているところを起こしたくはないから。
お邪魔するよ、と一応小声で挨拶、記憶の通りにシェラちゃんの部屋へ。
普段から勝手に入らないようにときつく言い聞かされているので、結構抵抗があるのだが、意を決して声を掛けた。

「シェラちゃーん、入るよー……」

こういう時は、ドアの軋む音さえも大きく思えるものだからやりにくい。
そっと、そーっと足から踏み入りベッドに寄ると、

「……すぅ」

比較的穏やかにシェラちゃんは眠っていた。
耳を近づけるが、喉の通りはさほど悪くないらしい。
喘息持ちでもないし、寝ている姿は苦しそうではなかった。
頭の下には、冷凍庫で冷やすタイプの、ゼリー状の保冷枕がタオルに巻かれて置かれている。
触れてみると既にぬるくなっていて、取り替える必要があるかな、と判断した。

「確か冷凍庫にはもうひとつあったはず……」

勝手知ったる兄の家、探ってみるとすぐに見つかる。
別のタオルを引っ張り出し、くるくると巻きつけて持っていく。
しかし取り替えるためには一度シェラちゃんの頭を持ち上げなければいけないわけだが、

「起こしちゃわないだろうか」

慎重に、首下から手指を通した。
綺麗と表現する他ない金色の髪は、いつもよりこころなしかくすんで見え、また手触りも少し乾いた感じがする。
そして何より首の裏は汗に濡れて、この調子だと服も汗だくかも、と思う。
後頭部を左の手のひらでホールド。ゆっくりと力を込め、浮かせる。
空いた右手でまず使用済みの保冷枕を抜き取り、それから新しいのをそっと差し込んだ。
今度はゆっくりと降ろす。滑らせるように手を引き、一息。
運良くと言うべきか、シェラちゃんは目を覚まさなかった。

「さて、じゃあ昼飯でも作るか」

おそらくその頃には起きるだろう。
なら、目覚めた彼女には消化のいいものを。










「ん…………」
「あ、起きた?」
「はい、おはようございます……って兄様!?」
「ほらほら、そんな大声出さない。風邪引いてるんだから安静にして」
「ですけど……まさか兄様が来てるなんて思わなくて」
「来るわけないって思ってた?」
「……いえ、ちょっと期待してましたの」

目を開けたシェラちゃんは、俺の姿を認めるや勢い良く起き上がろうとしたので制止した。
自分の体調を思い出したのか、すぐ沈静化し縮こまるように掛け布団で何故か口元を隠す。
熱の所為で頬は赤く、瞳を僅かに伏せ、

「兄様、あまり見ないでほしいですの……」
「どうして?」
「その……今日はお風呂に入ってませんし、髪も顔も洗えなくて……」
「別に問題ないと思うけど」
「……男の人とは、違うんですのよ?」
「あー、そう言われると反論できない」
「だから、その、顔をじっと見つめられるのは、恥ずかしいですの」
「まぁ、シェラちゃんがそう言うんなら見ないけど……そうそう、お腹空いてる?」
「え? あ、えっと……ちょっとだけ」
「じゃあ少し待ってて」

会話をした限り、魘されるほどの熱はないようだし、気管支周りもそこまで酷くはないようなので安心した。 知り合いに喘息持ちが一人いるが、迂闊に風邪を引こうものなら呼吸するのも苦しくて夜眠れないらしい。
都会は空気が悪く、そういう子供も多いだろう。
シェラちゃんがその中に入らないのは、僥倖と言ってもよかった。

俺の料理の腕前はクーさんや母親と比べれば月とスッポンくらいの差があるが、そんなレベルでも作れるものはある。
基本的には茹でるだけの麺類に、風邪引きにはぴったりなおかゆとおじやだ。
今回はシンプルに、白粥を選んだ。冷凍庫に凍った白米があったのでそれを使う。
ちなみに、もしなかったら自分の部屋から持ってくるつもりだった。
大した手順はいらない。鍋に水を張り、沸騰したら解凍した米を入れる。
あとはしばらく様子を見つつ放置して、適量の塩を投入し、しっかり煮立ったところで火を止めればいい。
土鍋があれば、あるいは炊いた米を使えばもっとおいしくなるんだろうが、そういった要求は贅沢というものだ。
掬うためのおたまで軽く潰し、さらに喉を通りやすくする。昔母親に習ったやり方。

シェラちゃんが起きる前にここまで準備しておいた。
少し待って、と言ったのは、皿とスプーンを用意するためだ。
自分の昼食も兼ねているので、二人分。シェラちゃんのは少なめにして運ぶ。
両手が塞がるからとドアを開けっぱなしにしたままだったが、別に泥棒の類もいないし平気だろう。
部屋に戻ると、シェラちゃんは身体の負担にならない程度の速さで上半身を起こし、俺からおかゆを受け取った。
手つきは、危なっかしくない。弱々しいがしっかりしている。
互いにいただきます、と呟き、スプーンで一口目を掬った。

「……おいしいですわ。それに、あったかい」
「大丈夫? そこにあるのは全部食べられそう?」
「はい。これくらいなら平気ですわ」
「わかった。もっと必要なら言ってね」

しばらく黙々と食べる。
とはいえおかゆはあまりにも軽く、あっという間に俺の胃に収まる。
もう一杯行くかなぁ、と思い、立ち上がりかけ、

「あれ、シェラちゃん? もうお腹いっぱいになった?」
「え、あ、その……ちょっと、お皿が重くて」

腕の止まったシェラちゃんに理由を訊ねると、そんな答えが返ってきた。
体力が落ちた状態では、確かに持ち続けるのは辛いかもしれない。
ことん、と膝の上に置かれた器を、俺はおもむろに手に取った。
中のおかゆに差し込まれたスプーンを右手に、傾けてもさほどこぼれないくらいの量を掬い、

「はい、口開けて」
「に、兄様。恥ずかしいですのよ……」
「でもシェラちゃん、まだお腹いっぱいじゃないでしょ? ならちゃんと食べないと、風邪は治らないよ」
「………………」
「ね?」
「…………あ、あーん……はむ、むぐ、ん」

もし、例えばマサ兄やクーさんにやろうものなら(まず有り得ないが)悶絶しそうな行動だが、 シェラちゃん相手だと不思議と気にはならなかった。
小鳥が餌をついばむように、小さな口がスプーンをくわえ、包み、柔らかく水を吸った米を攫っていく。
ほとんど噛む必要もなく、白く細い喉が動き、こくっ、とおかゆを嚥下する。
お椀の中身がなくなるまでそれは繰り返され、ごちそうさまの言葉を口にした頃には、 幾分シェラちゃんの表情に生気というべきものが戻っているように思えた。錯覚かもしれないが。

「じゃあ片づけてくるね」
「あの……兄様?」
「何?」
「もう、帰りますの?」
「まさか。今日は夜までいるよ」

そう伝えると、ほっとしたような顔をされた。
自分がそばにいることで、安心を与えられているだろうか。
なら有り難いな、と思う。力になれるのは有り難いな、と。

席を立つ。
片づけはさっさと終わらせよう。










昼食を摂ってから、三十分は経った頃だろうか。
布団の中のシェラちゃんが不快そうな顔をしていたので、どうしたの、と訊ねると、

「……汗で服が張りついて、気持ち悪いですの」
「あ、そっか。じゃあ着替える?」
「その前に、汗をどうにかしたいですわ」
「でも熱あるからお風呂には入れないしね……」

俺がそう言うと何故かシェラちゃんは頬を染め、少しどもり、口をむぐむぐさせながら、

「に、兄様が……」
「え? 何?」
「兄様が拭いてくださいません?」
「……それはつまり、俺がシェラちゃんの身体を?」
「…………そう言ってますわ」

清拭というやつか。あの、湯に浸けて絞ったタオルで肌を拭き取る。
ちょっと考えよう。汗を流すのに一番いいのは当然風呂に入ることだが、 熱があるのにそんな方法を選べば余計に酷くなってしまう。風邪の治りも確実に遅くなる。
だからシェラちゃんの申し出は妥当なものだと、わかってはいる。いるんだが待ってくれ。

……身体を拭くには肌を晒さねばならない。着たままでできるわけはないのだから。
しかし、シェラちゃんにその辺抵抗はないのか。いくら身長の問題で一緒に風呂に入っているとはいえ、 ちゃんとタオルも巻いているとはいえ、女性が柔肌を男に見せるというのは淑女的に有りなのか。
心配になって、確認してみる。

「いいの?」
「……兄様以外には、こんなこと頼みませんわ」
「はぁ……わかった。タオルとお湯を持ってくるね」

俺シェラちゃんに甘過ぎるかなぁ、あと確認簡潔過ぎたよなぁ、と思いつつ、風呂場に向かう。
お目当ては洗面器だ。ガスは料理する時から点けっぱなしなので、蛇口を捻る。
最初は水、一分も経たないうちにそれが湯に変わり、すかさず俺はノズルの下に洗面器を差し込んだ。
六分目程度で止め、新しいタオルを調達。用意したふたつを持ってリターン。
と、シェラちゃんが布団から出ているのを発見した。
手には別のパジャマ。箪笥を開けて着替えを取り出していたらしい。

「言ってくれれば俺がやったのに」
「そんなこと恥ずかしくて任せられないですの……」
「俺は別に気にしな、」
「私が気にしますのよっ」

怒られた。

「ごめん。悪かった。……で、とりあえず持ってきたけど」
―――― 兄様、少し後ろを向いてていただけます?」
「え? あ、うん」

意図をすぐに察し、背を見せる姿勢を取った。
僅かに躊躇いの間が空き、それから衣擦れの音が聞こえ始める。
視覚情報がない分、音は大きく感じるものだ。
決して欲情や劣情の類は抱かないが、何というか、物凄く居心地が悪い。

……今腕を抜いたな。

するり、と少々長めの擦過音を耳にし、推測する。
続いて同じくらいの音が響き、これで脱いだんだろうかと思う。
今度は、ぱさりと衣服の投げ出された音。
そして何かをごそごそと寄せるような音。
俺は開いたドアの先、板張りの廊下を眺めて待つだけ。

「兄様、もういいですの」

許可が降りると同時、振り向く。
まず見えたのは華奢な背中と白磁の肌。相変わらず肩も腰も細く、自分と比べて半分もないように錯覚させられる。
近づけば仄かに汗が浮いていて、なるほど確かに、これでは寝苦しそうである。
シェラちゃんは首だけを回し横目でこちらを窺い、

「は、早くお願いしますの」
「了解」

手に持ったタオルを、洗面器に張った湯へと突っ込む。
跳ねないようそっと底まで沈めてから、浮上。おおまかに水を切り、それから絞る。
大事なのは、床を濡らさないよう配慮することだ。
二つ折りにし、さらにそれをまた二つに折る。
まだ含む水量が多いうちは、軽く優しく。手を離して雫が落ちないくらいまで。
そこから先は、絞るというより捻る感じで、力を込める。
今回の目的が清拭である以上、あまり乾かし過ぎてもいけない。
汗を拭き取るのだから、ちょっとばかり湿り気が残っている程度でちょうどいい。
満足行くところまで絞ったタオルを広げ、畳み直す。
きちんと伸ばし、半分の半分に。開いた手のひらに収まらないサイズ。
それをぺたりと、シェラちゃんの背中に貼りつける。

「ひゃぅ」
「どう? 冷たかったりしない?」
「あったかいですわ」
「ならよかった」

そこから上下にタオルを動かし、背中の汗を丹念に拭き取っていく。
擦るというより撫でるような力の入れ方で。肌に傷でもついたら怖いと思っての配慮なのだが、

「もうちょっと……強くても平気ですのよ、兄様」

要求が来たのでその通りにする。
さらにもう少し力んでみると、ん、と詰まった声が聞こえた。
息苦しくないだろうか。なるべく気を配りながら続ける。
タオル越しに伝わる肌の感触は、柔らかい。柔らかく、瑞々しい。
風呂で背中を洗う時の、自分の肌を思い出す。がさがさと乾いているし、硬いし、碌なものじゃなかった。
シェラちゃんは女の子なんだな、と当たり前の事実に妙な感慨を覚えつつ、擦っていく。
背から腰、肩甲骨、そして肩。途中幾度か濡らし直してまた清拭を再開する。
十分も経たずに後ろは終わった。問題はここからだ。

「えっと……前はどうする?」

現在シェラちゃんは、掛け布団を掻き集めて胸に抱いた姿勢。
こっちからは表情も見えず、わかるのは背と肩のラインだけだ。
なので今何を考えているか、わからない。答えを待つしかない。
自分で、という返事が望ましいのだが、どうだろうか。
さすがに前も俺がやったら、滅茶苦茶危険だと思う。具体的には世間体が。

「自分でやりますの。兄様、タオルを貸してくださいます?」
「うん。はい」

だいぶ温くなってしまった湯に浸け、絞ったものを渡す。
もう取り替えてこなくちゃな、と俺は洗面器を抱えて立ち上がった。

「お湯替えてくるね」

返事を待たずに部屋を出た。二分も掛からない、平気だろう。
風呂場で使用済みの水を流し、再び湯を注ぐ。こぼさないように配慮しながら戻る。

その湯を一度だけ使って、清拭は終わった。
俺はタオルと洗面器を片づけるためにまた席を立ち、 手ぶらになって帰ってくると何故かシェラちゃんがこっくりこっくりと舟を漕いでいた。

「え、シェラちゃん眠いの?」
「あ……はい。汗を拭いて気持ち悪くなくなったからかもですの」
「そっか。でも、寝る前に上を着ないと」
「そう、ですわね」

小さな手指が新しいパジャマを掴み、しかしそこで止まる。
閉じかかった瞼の奥から透き通るような碧眼が俺を見据え、

「ごめんなさい、兄様……何だかとても眠くて……手が動きませんのよ……」

嫌な予感がした。
そして、だいたいこういう時の予感は当たるものだ。

「……着替えさせて、いただけます?」
「やっぱりか……」

正直困る。でも、断れない。
上を着ないまま寝てしまえば、風邪は悪化するだろう。
シェラちゃんが自分で着られない以上、誰かがその役目を負うしかなかった。
パジャマを受け取り、広げ、シェラちゃんの腕を取る。
本当に眠いというのは冗談でも何でもないらしく、力の入っていない身体は無抵抗だ。
子供の頃、幼稚園の女の子達が夢中になっていた人形の着せ替え。 傍目から見ていた自分は全くこれっぽっちも楽しそうには思えなかったが、 彼女達もこんな気持ちで遊んでいたのだろうか。だとしたら嫌過ぎる。
まず右腕。次に左腕を袖に通し、とりあえず羽織るところまでは行った。
問題は、これ以降である。計六個のボタンを、俺は留めなければいけない。
どうにかシェラちゃんは着替えが終わるまで寝まいと頑張ってくれていて、袖を通した時点で遅い動作ながらもこちらを向いた。 開いた前から曝け出される肌。辛うじて布に隠れた胸と、ギリギリ肋骨が見えない程度に肉の付いた腹と臍。
また微かに染み出た汗によって、湿っている。産毛しか生えていない、自分とは決定的に違う少女の柔肌。

「………………」

下からボタンを留めつつ、思う。
シェラちゃんがもっと大きくなったら、その頃の俺はシェラちゃんにとっての何だろうか。
絶対に埋められない、歳の差がある。今はこんなに慕ってくれているけど、その気持ちも、ずっと変わらないはずはないのだ。
いつか……たぶん遠くない未来に、俺とシェラちゃんの関係は終わるんじゃないか、と。
悲しくはない。俺にとって彼女はかけがえない家族の一人、みたいなものだから。
幸せになってほしいし、そのために俺ができることはやれるだけやりたい。
でも、例えばシェラちゃんに彼氏と呼べる人ができた時、もう俺はこんな風に風邪を引いた彼女の世話をして、 パジャマのボタンを留めるなんてことはできないだろう。いや、できちゃ駄目だ。駄目なんだ。

悲しくはない。だけど、寂しくなる。絶対に。
ただ、寂しくても、そんな日が来たら俺は、笑って祝福したいと、思った。

最後、胸元より少し上のボタンを留めて、おしまい。
そこまでを見届けて、シェラちゃんは安心したのかふっとベッドに体重を預けた。
布団を掛ける。安眠の邪魔になるといけないな、と立ち上がろうとして、

「にい、さまぁ……ここに、いて……」

遠ざけかけた手を握られ、俺は諦める。
病気に罹ると、心も弱くなるものだ。普段よりも甘えん坊なお姫様だ、と苦笑し、握り返す。

静かに寝息を漏らす顔は、来た時よりも穏やかに見えた。










「……んで」
「何だよマサ兄。その『馬鹿じゃねえの?』って顔は」
「いや、看病してた人間が風邪引いたら世話ねえな、と」
「……るさい」
「憎まれ口も出てこないか。なあベル、こういうの何て言うんだっけ」
「ミイラ取りがミイラになった?」
「ああそうそう、そんな感じ」
「絶対違う」
「細かいことはいいだろ。しっかし見事というか、お前狙ってやったんじゃないのか? いくら何でもベタ過ぎる」
「……好きで熱出してるんじゃないからな。ていうかマサ兄もクーさんも俺を笑いに来るためにわざわざ鍵開けて入ってきたのか」
「ううん。ちょっと伝言をね」
「伝言?」
「我が素晴らしき愛娘から。学校が終わり次第すぐに来るとさ」
「………………」
「ま、精々手厚い看病を受けるといい」
「夕食は任せるから、シェラをお願いねー」

去っていく嵐は新たな嵐の訪れを予告していった。
盛大な溜め息を吐く。盛大過ぎて咳も出たが気にしない。

シェラちゃんの風邪は三日と掛からず治ったが、そのウイルスはどうやら俺がしっかり持っていったらしく、 要するに今度は俺が病床に着く羽目になった。
目覚めた時から身体は鉛に変わったかのように重く、喉も腫れるし頭は霞が掛かった状態でまともに物を考えられない。 典型的な風邪の症状だった。
仕方なく学校に欠席の旨を伝え、大人しく布団の中で丸まっていたところにあれだ。
頭痛がするのは断じて風邪だけが原因じゃない。

「……この歳で、看病されるなんて」

どう考えても、恥ずかしいだろう。
そして柄じゃない以前に、あらゆる意味で心配になる。
何しろ彼女は六歳児、誰かを看病した経験もなく、つまり先日俺がしたことがそのまま全部返ってくると思っていいわけで。
特に清拭。清拭だけは、絶対に阻止しなければ。

「だって、追い返せないもんなぁ……」

あの夫婦はそれを確信して言っているのだからタチが悪い。
何だかんだで断れない俺はそれ以上に悪いんだが、

「ま、どうにか乗り切るか」

困ったことに、決して嫌ではなかったりするのだった。
馬鹿兄貴の思惑通りに動くのは気に食わないが、シェラちゃんの機嫌を損ねるよりは遙かにいい。

半分開いた窓から入ってくる風は、一段と冷たく、しかし乾いていた。
当然だろう。雨はもう、綺麗さっぱり上がったのだから。
こころなしか、俺の心に圧し掛かっていた憂鬱も、少しは軽くなっているように思えた。

本日土曜、時刻は十時過ぎ。
あと……三時間もすれば、小学校の授業は終わってしまうだろう。
それまでにせめて昼食くらいは作っておこうと、俺は胡乱な頭から貧相なレシピを必死に引っ張り出す。

まぁ、叱られるのはその後でいいだろう。
そこから先は、お姫様に任せるさ。





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 あとがき


先日始めたMixi内でちょこちょこ書いてたもの。
ずるずると引き延ばしていたら何だか物凄い分量になりました。
とはいえ前作『チョコと気持ちの渡し方』(フルサイズ)と同じくらいなので大して変わりません。
話の骨子としては超単純。風邪を引いた幼女を看病するという、口にすると身も蓋もない感じw

裏テーマは、直接描写抜きで如何にエロくするかどうか。
劣化型川上稔式エロ描写とも言う。汗や身体のラインの描き方辺りは。
シェラがヒオに見えてしまう分余計にそう感じるのかもしれませんが。いや、最近読み直してて。

しかし金髪幼女の看病とは大変そそられるシチュエーションですが逆もガチで有りだよね!
まぁ、シェラちゃんまだあんまり料理作れませんけど。あと清拭。見慣れてる肌も状況次第で恥ずかしく思えたりするもの。
組み合わせ以外はベタもベタ、ベタの極致みたいなシチュばかりですが。それこそ私。
無個性も突き詰めれば個性になるはずですよね。頑張ります、はい。


拍手おまけから短編にランクアップ(……ランクアップ?)。
ある意味一番安定して書けるのはこの二人のおはなしかもしれないな、と思いました。



何かあったらどーぞ。