その瞬間。
 俺の頭の中には、何もなかった。

「う……うおおおぉぉぉおぉぉぉぉぉぉ――――っっ!!」

 細い身体を空中で抱きかかえる。
 壊れそうだ、と思う間もなく重力に引かれ、迫り来る地面。
 逆さになった世界が目まぐるしく色を変え、落下する全身が風を切って浮いていた。
 眼下には小さな茂み。クッションとしてはあまりにも心許ないが、何もないよりは遙かにいい。
 地面に着地する。が、限界まで膝の収縮で衝撃を逃がしても耐え切れず、腕の中の古式を守るようにして転がる。

「………………」

 どうにか片膝を立て、気絶した古式をそっと地面に下ろす。
 見上げればそこにはフェンスに張りついた恭介と真人。大丈夫だ、という意を込めて、無事な右手の親指を突き上げてみせた。
 遅れて理樹が顔を覗かせ、安堵の表情を浮かべる。それで俺も安心して、ふっと力が抜けたかと思うと、意識が薄れていった。





 生き甲斐の証明





 古式みゆき。元弓道部のエースにして、今は弓すら握れなくなった悲劇の少女。
 そんな風に、周りには思われていたのだろう。実際、いつも彼女が付けている眼帯は痛々しさを殊更強調しているようで、 廊下を歩くだけで好奇と同情の視線を向ける者も少なくはなかった。……針の筵、というやつだ。 例えば理樹が古式の境遇にあったなら、一週間と耐えられまい。それをさらりと受け流せていたのは、 ひとえに古式が精神の修練を主とする弓道を学んでいたからかもしれない。だとすれば、皮肉にも程があった。
 当人に言ったことはなかったが、俺もある意味似たような境遇で、親に将来を期待されていたのは全く同じ共通点だった。 剣道と弓道、明確な違いはあるが二つとも武道の範疇には入る。流派の家に生まれつき、幼い時分から仕込まれ、 優秀な結果を残すことを望まれる。俺と古式が解り合える点と言えばそれくらいで、だが、それだけがあれば充分だった。
 元より校内でも名の知れていた彼女だ。視力を失ったこともすぐに知れ渡った。 数日の欠席後、登校してきた古式の右目には、白い眼帯が付いていた。

 誰が悪い、というわけではない。
 だからこそ、周囲は口を閉ざすことしかできなかった。

 弓道部の部員に相談を持ちかけられたのは、そこからだ。似たような境遇の人間として、古式さんの話し相手になってほしいと。
 最早弓を握れない古式は弓道部に足を運べない。かといって他の部活に友人らしい友人もなく、元来の大人しい、 言い換えれば気弱な性格では、新たな友人を作るのも難しく思えた。 なら、どこか共通点を持つ相手がいれば、少しは心の支えになるかもしれない。そう頼まれて、俺は断れなかった。

 大和撫子、という言葉を体現したかのような古式はいつ見ても俯きがちで、か細い声をしていた。 奥ゆかしく、相手を立て、俺のつまらない話でも真剣に聞いてくれたが、古式が笑ったところを、 俺は一度も目にしたことはなかった。無意識なのか、時折ふっと眼帯に触れては弾かれたように手を戻す。 閉ざされた世界の片方を、古式は心のどこかで求めていたのだろうか。それに対する答えを、俺は持っていない。

「……夢に、見るんです」
「夢?」
「はい。弓を引く、自分の姿を」

 一度だけ、俺は古式が矢を放つところを見たことがある。
 流れるような動作で弦を弾き、放物線を描いて的へと飛んでいく矢。 放たれた瞬間、的中するという確信を感じ、実際その通りになった。
 剣道が他者との戦いだとするのなら、弓道は己との戦いだ。恐れ、震え、自らの弱さは結果として現れる。 淀みも迷いもなく弓を引けた者だけが、古式のようになれる。 なるほど、嘱望されているというのも間違いではないのだなとあの時は思った。
 しかし今は、それも遠い昔の話になってしまっている。片目では碌に的も狙えない。遠近感覚が狂い、距離感を掴めないからだ。
 小さな一点、その中心に当てることだけを目的とした弓道を修める者にとっては、致命的と言える欠損だった。

 相談の内容は、日に日に重くなっていった。
 それは古式が俺に心を少しずつ許した証拠なのかもしれないが、決して喜ばしいとは思えない。 楽観視できるほど、彼女の傷は浅くなかった。
 弓を持てないという現実は、まず古式の家庭に不和の種を芽生えさせた。 表面的なものではないと言っていたが、俺は自分の父親を想像し、心中でそんな古式の言葉を否定した。 例え古式の親がどれだけ娘に愛情を持っていたとしても、裏切られた期待はそのまま当人に対する評価へと変わる。 勝利を望まれるというのはつまり、負けることを許されないのと同じなのだから。 そして古式は、二度と結果を残せなくなってしまった。抱いた期待が大きければ大きいほど、落胆の度合いも大きくなる。
 また、周囲も古式を腫れ物のように扱っていた。弓道は、古式の代名詞に近かったものだ。 それを失うことは、ある意味古式から個性を取り払ってしまうのに等しい。 彼女を知る誰もが、古式は弓道に文字通り自身の全てを懸けていた、ということを理解していた。 そんな相手に、どうやって声を掛ければいいのか。他人を拒絶するような眼帯も相まって、古式の周りから人の姿はなくなった。 宛がわれた俺以外。

 ……もし恭介達と出会わなかったら。
 俺も、こんな風になっていたのだろうか。

 話を聞けば聞くほど、俺に古式の傷は癒せないと思えてきた。
 結局のところ、俺と古式には決定的な違いがあるのだ。視力を失った人間の辛さや苦しさは、 同じく視力を失った者にしかわからない。だが俺は五体満足で、剣の道を失ったわけでもない。 今も部活の片手間、というと古式に失礼だが、休憩や暇な時間を使って相談に乗っている。
 そもそも、力になれているのかどうかさえ怪しい。心の支えだなんて、あまりにもおこがまし過ぎる――そう思いながらも、 微かな希望に縋るように、俺は拙いながらも全力で、古式の言葉に耳を傾けた。

「宮沢さんにとって、剣道は何ですか?」
「……わからん。小さい頃から竹刀を持たされて、気づけばこうなっていた」
「……私もでした。物心ついた時には弓を握っていて、家では厳しい教えを受けていました」

 弓のことを話す時、古式は必ず過去形で語った。それが右目の眼帯よりも俺には痛々しく感じ、 目を逸らしたことも一度や二度ではなかった。
 ――彼女にとって、弓道とは生きる目的そのものだ。 会話を重ねるほどそれを俺は強く知り、同時に例えようもない不安を募らせた。

 だから。
 校内放送が流れても、慌てて飛び込んできた女生徒を見ても、俺は動揺しなかった。

「古式さんが、屋上にっ」

 動かない。……俺にできることは、何もない。
 そして実際に、事態は俺を抜きにして容易く収束に向かった。 フェンスを乗り越えた古式は教員の一人に押さえつけられ、事無きを得る。 茫然自失とした彼女は家に帰され、その後、何事もなかったかのように授業は再開された。
 自殺寸前まで追い込まれていた古式のことを、教師は勿論、生徒達も誰一人理解してはいなかった。 俺も、予測はできていたが理解していたとは言い難い。 無様な自分の在り様に嫌悪感を覚え、ただ、無事でよかったと人知れず安堵の溜め息を漏らした。


 翌日。
 今度こそ古式は、誰にも止められず自らの命を絶った。


 ……俺は思う。あの時、古式が屋上から飛び降りようとした時、もし俺が止めに行っていたのなら、古式は死ななかったのか、と。
 後悔だけが胸に残り、それを振り払うため、俺はさらに部活動へ傾倒した。 恭介達はまた馬鹿なことをやっていたが、誘われても野球には参加しなかった。 そんな気分にはなれないし、正直、昔のように笑うあいつらが眩しかったのだ。
 それでもリトルバスターズの面々といるのは楽しくて、馬鹿騒ぎには多少顔も出した。重い感情も、少しの間は忘れられた。



 ――横転。世界が回り、俺は咄嗟に鈴を庇って、



 修学旅行の、日のことだ。崖から落ちたバスは中にいた生徒達を瀕死の重傷に追い込んだ。 放っておけばそのまま死ぬような重傷に。
 そこで生まれた閉じた世界。これから二人きりになって、けれど二人きりでは生きていけないだろう、 弱い理樹と鈴のために生み出された、都合の良い世界。
 俺達は幾度となく繰り返す輪の中で、恭介のシナリオに沿って二人を強くしていくことを誓った。 過酷な未来に負けてしまわぬように。どうか、二人だけでも生きていけるようにと。
 ……そうして俺は、再び古式と出会った。また相談役を請け負い、話を聞き、定められた結果を受け入れた。
 俺には何もできない。傷だらけの古式に、傷一つない俺が何をしてやれるというのか。

「謙吾っ」

 理樹に名前を呼ばれても、俺は立ち上がらなかった。三人が屋上に向かっても、ずっと。
 このまま放っておけば、古式は教師の一人に取り押さえられ、今日のところは死なずに済む。何もできることは、ない。

「……く」

 なのに。俺はどうして、今、立ち上がろうとしているのか。走り出そうと、しているのか。
 迷いがあった。それは後悔だ。自らの誤った判断で古式を死なせてしまったのではないかという、そんな想い。
 過ちは取り返せない。ここは現実ではないのだ。
 例え助けられたとしても、古式はもう二度と戻ってこないのだから――

(だから――だから、何だ!)

 足が勝手に動く。驚きの声を上げるクラスメイトにも構わず、全速力で廊下を、階段を駆け抜ける。
 屋上に続く最後の階段、その前で待ち構えていた剣道部の顧問、遠藤教諭を一撃で昏倒させ、扉を開け放つ。
 これで部活はできなくなるだろうな、と思った。それでも、よかった。
 俺が外に出た途端、風向きが変わり、それに釣られるようにして古式がこっちへと振り返る。
 目を見開き、叫んだ古式の言葉を、おそらくは俺だけがしっかりと、聞いていた。

「宮沢さん!?」

 男子教員が古式に向かって走る。暴徒のようなその勢いに思わず後ずさり、古式の身体が宙に投げ出され、 俺は飛び込むように古式を抱きかかえた。
 きっと、それこそが――あの時、俺が本当にするべきことだったのだと、思った。










 花を捧げた。訪れる前に買ってきた、瑞々しい花。
 その美しさは俺にはよくわからないが、古式ならどう答えるかと思い、苦笑する。
 所詮祈りは自己満足だ、安らかに、と願っても、それが死者に届くわけでもないだろう。
 だが、俺は生きているからこそ考える。もし自分が墓の下に入った時、親しい者が来てくれたなら嬉しく感じるものだと。
 古式にとって、俺はそういう人間だったろうか。今ではその返事を聞くこともできないが、祈るだけなら許されると信じたい。

「……聞こえるか、古式」

 俺の言葉が届くのなら、見ていてほしい。
 もしひとつのことに絶望したとしても、人間、やれることなんて、いくらだってある。
 あの世界で古式に言ったことを、俺はこの先証明していこう。
 輝かしい未来で。一度は失いかけた仲間がいる、そんな世界で。
 例えこの手が剣を握れなくなったとしても、その時はまた、新しい生き甲斐を見つけていけばいい。
 馬鹿と後ろ指を指されたら、馬鹿で結構と笑い飛ばしてやればいい。
 本当に、単純なことなんだ。

「約束する。どれだけ後悔しても、俺は膝を折らん」

 もう一度屋上で震える古式を見たら、俺は迷わず助けに行くだろう。
 大切な仲間が危機に晒されていたら、俺は躊躇わず力を貸すだろう。
 同じ轍は踏まない。少なくとも俺には、古式を救えるだけの力があるのだから。

 墓標は結局最後まで、何も語らなかった。
 ただ、風にそっと揺れた花を、俺は不器用な心で美しいと思い。
 そんな姿を見て、古式は小さく笑うだろうかと、似合わないことを考えて背を向けた。

 また来る日もあるだろう。
 その時は、リトルバスターズの面々を連れてくるのもいいか。
 そうすればきっと、酷く賑やかになるなと想像して、俺は古式に聞かせてやるつもりで馬鹿笑いをした。

 自前のジャンパーがはためく。
 世界で一着、リトルバスターズのメンバーである、今の俺の、生き甲斐の証明が。





 あとがき

 当初リトバスは借りてプレイする予定だったのですが、 その予定を狂わせたのは机から出てきたへそくりらしき千円札十枚とニコニコの筋肉さんは以下略でした。 だってもう、あんなの見せられたら買うしかないじゃないですか。 鍵界隈の面識ある方々が軒並みプレイしていたこともあり、私もさくっと始めたのですが、いやー参った参った。 結構クラナドとかと比べて不満がある人もいるらしいですけど、個人的には傑作。 むちゃくちゃ、いやもうくちゃくちゃ素敵なおはなしでした。
 そして何より登場人物がみんなラヴ過ぎる。ツッコミ役ながらも真人相手や野球本番でのネタ出しでは鋭いボケもこなす理樹くん、 言わずもがな最萌え男子の恭介、愛すべき馬鹿な真人、誰よりも強いのに弱い謙吾、 アホだけどだんだんと成長していく鈴、ドジっ子でありつつ意外としっかりした小毬さん、 短歌での美魚さんとのコンビは特筆すべき別の方向の馬鹿な葉留佳さん、棗×直枝とか名台詞過ぎる美魚さん、 最早語るまでもないわんこのクド、最強でもルート入ると異様に可愛らしい唯湖さん。 サブキャラも味があって、さすが二次創作のネタには事欠かないなぁ、と思いました。
 しかし惜しむらくは複雑な構成故の解り難さ。必要な情報はほとんど散りばめられてるんですが、 散逸し過ぎてて全てを拾い上げるには何周もしなければならない、というところが欠点らしい欠点でしょうか。 そのうちのひとつが、今回書いたネタです。小毬さんルート、拓也さんの墓参りに行った時、理樹くんは謙吾の姿を見るのですが、 それとリフレインで語られる、鈴ルート時に恭介が使った『禁じ手』。ふたつの情報がないと、理解できないかもしれません。
 この解釈が正しいかと訊かれれば、自信満々で頷くわけにもいかなかったりします。 捉え方の違いというのは二次創作に於いて必ず出てくる問題であり、完全な解答が存在しない以上、 どのように取られてもそれは致し方ないことですから。
 なので、これは「私がこれからリトバスの二次創作を書くに当たって必要な清算」とも言えます。 するべきことを全部こなしたその先にこそ、彼らのさらなる未来が待っているのだと思うのです。

 ……なんて言ってますが、実はちょっと書いて公開すべきかどうか迷ったりもしました。
 ぴえろさん(面識全くないのにリンク貼ってすみません)が 長編で同じらしきテーマを掲げてたのですよ。
 ありふれた発想ではあるので想定していなかったわけではありませんでしたが、まあ、アレです。
 どっちが先だの何だの、そういう言われ方をしてしまう可能性もあるかもしれないよなぁ、と。
 しかし、書き手が違えば認識や形状も異なるもので、私のとあちらのとではまた別物になるだろう、 そう思い手を止めなかった次第です。私なりの答えがこの話であり、あちらはあちらなりの答えを本文で出すはずですから。

 とりあえず、女装ネタとか姉御が暴れたり美魚さんが妄想したりする話がすげえ書きたい。
 でもまだ忙しいから封印。色々一段落したらぐあーっと行きたいなぁ。


何かあったらどーぞ。