健一不在の夕方、珍しい相手から電話があった。
 宇美――三条宇美。彼女が絵を描かなくなったことがきっかけで疎遠になり、高校を卒業して以来、一度も連絡を取り合っていなかったものだから、初めは名前を聞いて面食らった。
 当時の連絡網はまだ残っている。しようと思えば、こちらからも電話はできただろう。
 しかし、蛍子には小さな負い目があった。あの日「もう絵を描かない」と告白した宇美に、随分辛辣なことも言ったのだ。今更自分から声を掛けても、受け入れられないかもしれないと思っていた。

 そんな蛍子の心境は露知らず、受話器越しの彼女はからっとしたものだった。ブランクを全く感じさせない、高校時代そのままの雰囲気と口調で、明日ちょっと会わないか、と提案してきた。
 正直に言えば、この頃の蛍子は他人と顔を合わせたいテンションではなかった。
 粘ついた感情を持て余し、遅くなるばかりな健一の帰りを待つだけの日々。
 形のない何かに追い詰められているような焦燥感が、ずっと胸を灼いていた。そういう自覚を持っていたから、気分転換にもいいかもな、と宇美の提案に快諾した。

「や、久しぶりー」
「……ん、久しぶり」
「もう蛍子ってば、旧友との再会なのにテンション低いなあ」
「私はいつもこんなものだったろ」
「まあねー」

 翌日昼に顔を合わせた宇美は、ほとんど変わっていなかった。
 少しだけ、背は伸びただろうか。けれど人懐こい明るさも、それでいて意外に強かなところも、相変わらずのようだった。
 蛍子の返しにくすくすと笑いながら、とりあえずご飯食べよ、と手を引っ張られる。されるがままに連れられたファミレスの喫煙席で、お互いランチとコーヒーを頼んだ。ドリンクバーではなく、注文して店員が持ってくる形式だ。いちいち立ち上がるのも億劫なので、蛍子としてはそのタイプの方が有り難い。
 程なくして来たランチを早々に片付け、若干温くなったコーヒーを啜りつつ、会話は近況報告から始まった。
 とはいえ、蛍子の方から話せることはあまり多くない。相変わらず両親は家に寄り付かないし、描いた絵が何かしらの賞に引っ掛かったわけでもない。唯一にして最大の出来事は、当然彼女にも言えるものではなかった。
 逆に宇美は、この半年近くで色々と転機があったらしかった。

「あのね、実は最近、また絵を描き始めたの」
「……そうなのか」
「ごめんね。前に私はもう描かないから、私の分まで描き続けてね、なんて言っちゃったのに。手のひら返すような真似しちゃって」
「いや、別にいいよ。私は宇美の絵、赤の使い方が巧くて好きだったし、あの時は勿体無いなって思ってたんだ。また描き始めてるって今聞いて、結構ほっとした」
「そう言ってもらえると嬉しいかな」

 かつて宇美が筆を折った理由には、いくらか蛍子も関わっている。
 過去、美術部には、真面目に美術に取り組む生徒がさほどいなかった。所属部員の中で最もモチベーションの高い人間が蛍子であり、そして少数派でもあったのだ。宇美はまだやる気がある方だったが、大半の生徒は美術部を溜まり場程度にしか見ていなかった。
 馴れ合うような、緩んだ雰囲気が嫌で、耳障りな声の届かない隅でいつもカンバスやスケッチブックと向き合っていた。宇美と静流、二人の友人は、そんな蛍子が排斥されることを心配してそばにいた、のだと思う。どうでもいい男漁りの話題を静流が振ってくるのは勘弁してほしかったが。
 蛍子は顧問の荒幡教諭に、特に期待されていた生徒だった。ずっと近くで彼女の絵を見てきた宇美は、自分の限界を強く感じていたのかもしれない。コンクールの件で、蛍子の絵がお蔵入りになったのは、ある意味トドメだった。桑畑綾の名と作品は、当事者のみならず、周囲の人間も打ちのめしたのだ。
 芸術とは、決して惰性で続けられるものではない。
 自分が認めた親友を完膚なきまでに叩き潰した――輝かしい才能をあっさりと薙ぎ払う、より理不尽かつ圧倒的な才能を前にして、三条宇美の絵画に対するモチベーションは消失してしまった。それでも蛍子の力を信じたくて、信じていたから、仄かに抱いていた夢を託した。
 だからというわけではないが、蛍子は今も絵で生計を立てることを諦めていない。
 芸術家を志す者は、大抵一度はプロになることを考える。
 けれど、なれないなら絵を描いてはいけない、なんてことはないだろう。
 何かを生み出すのは、程度の差こそあれど、誰にだってできる。
 どんな形でも、宇美がまた絵を描くようになったのは、蛍子にとっても嬉しい話だった。

「で、今はどんなのを描いてるんだ?」
「えっと……『激転バトル ビーブレイド』って知ってる?」
「聞いたことないけど……」
「ちょっと前まで、月曜の夕方六時にやってたアニメなの」
「アニメってことは、スタッフとして参加してたのか?」
「あ、違う違う。お金もらえる仕事じゃないの。趣味というか、ファン活動って言えばいいのかな。二次創作とかアニパロとか、そういう感じの」
「ファン活動?」
「アニメって原作を元にして、自分で考えた話を漫画にしたりとかね」
「なるほど……。最近はそういうのがあるのか」
「結構昔からあるジャンルだよ? 夏と冬に大きなイベントが開催されてて、プロアマ問わずいろんな人が作品を出したりするの。三日で二十万人とかお客さんが来るんだ」
「二十万……個展の来客数とは桁が違うな」
「個人を目当てにして来るわけじゃないけどね」
「いやでも、相当な規模のイベントだってことはわかった。宇美はそれにどういう形で参加してるんだ?」
「ビーブレに、火矢樋戒って主人公のライバル的なポジションのキャラがいてね。その子がすごい可愛くてハマっちゃってねー。だから主に戒様の本を出してるの」

 アニメのキャラに様付けって。
 この時点で既に嫌な予感はしていたが、目を細めながらも蛍子はさらに掘り下げた。

「漫画なんだよな。どんな話?」
「ハジカイでだいたいいちはちかなあ」
「……ハジカイ? いちはち?」
「ビーブレの主人公のハジメと戒でハジカイね。いちはちは、いわゆる十八禁」
「じゅっ……!?」
「あ、そういえば蛍子、こういう話苦手だったっけ。ごめんごめん」

 十八禁ってことはつまり十八歳未満禁止=エッチな話で名前を聞いた限りどっちも男じゃないのかその組み合わせでエッチな話ってどういうことだというかいったいこの半年ほどで宇美に何があったんだ。
 複雑な思考がぐるぐる回り、十八禁という単語を臆面もなく口にしたことに突っ込むべきなのか、どうやらアブノーマルらしいその内容にメスを入れるべきか悩んだ。
 ……まあ、アブノーマルな部分を否定する資格は、自分にはないか。
 男同士は非生産的だが、近親相姦だって禁忌度合いで言えば大差ないだろう。むしろ法律に抵触しかねない分、より悪くさえある。

「いや、苦手っていうか……びっくりしただけだよ」
「そりゃそうだよねえ。私も自分がこうなるだなんて思ってもみなかったし」
「私にはよく知らない世界だけど、宇美は楽しんでるんだよな?」
「うん。何だかんだで充実してるよ」
「ならよかった。いつか、今の海の絵も見せてくれよな」
「じゃあ今度作った本持ってくるね! 蛍子に見せるのはちょっと恥ずかしいけど……楽しめるんなら素質あるだろうし、上手く行けばこっちに引き込めるかも……」
「ん? 何か言った?」
「あー、ううん、何もー?」
「そっか。悪い、煙草吸っていいか?」
「いいよ」

 家のより何段か不味いコーヒーをちびりと飲み、ポケットから取り出した煙草の先にライターで火を点ける。咥えたフィルタから強めに息を吸い込むと、先端の灰が割合を増した。煙を宇美に向けないようにして吐き、勝手に崩れてしまう前に、灰皿へと燃え滓を落とす。

「高校の時からもう吸ってたよね」
「弟以外、家じゃ咎める奴もいなかったからさ。一個くらい悪いこともしてみたかったんだよ」
「学校じゃそこそこ優等生やってたもんねえ」
「絵描くのに支障あったら困るからな」

 本当は勉強だって面倒だったが、絵描くのにかまけてたから成績悪いんだ、なんて言われるのが鬱陶しいから、こなせることをこなしていただけだ。幸いにも、勉学にしろ運動にしろ、そこそこやれる程度の才能を天は与えてくれたらしい。ただ、一番欲しい才能が足りなかった。
 あれは突き詰めれば、それだけのことだ。
 煙草は最初、一種の逃避だった。絵を描くことに純化できない現実に対しての、ささやかな抵抗。いつしか癖になって、定期的に吸わないと落ち着かなくなった。まあ単なる中毒だろう。碌でもない自覚はある。

「それにしても、なんか蛍子、ちょっと色気出てきてない?」
「色気?」
「昔はもうちょっとお堅いというか、男の人を寄せ付けないような感じだったけど、今はこう……変に色っぽい。唇とかふっくらしてるし、エロいお姉さん感あるよ」
「……なくていいんだが」
「もしかして、彼氏とかできた?」
「んなわけないだろ。だいたい誰が相手になるっていうんだ」
「大海君とか?」
「有り得ない」

 絶対にない。想像するだけでぞっとする。
 あのアホとは天地が引っ繰り返っても可能性ゼロだ。

「じゃあ私の気の所為なのかなあ」
「……ま、でも、好きな奴はいるよ」
「え、嘘!? 誰!? 私の知ってる人!?」
「秘密だ」
「えー。蛍子のいけずー。友達のよしみで教えてよ、ねっ?」
「秘密は秘密だ」
「鉄壁だなあ……。でも、だから変わったんだね。なんかちょっと安心した」
「安心? 好きな相手がいることに?」
「それもあるけど……蛍子さ、コンクール駄目になった時、そのままぽっきり折れそうな感じだったから。それってきっと、蛍子にはホントに絵しかなかったからなのかな、って思ってたんだ」

 両手で頬杖を付いた宇美が、蛍子の顔を見て「んふふー」と嬉しそうな表情を浮かべる。

「もう絵描かないって追い詰めた私が言うことじゃないかもしれないけど。辛い時はその気持ちが、蛍子を支えてくれるよ。蛍子が好きな人が、蛍子を好きになってくれたらもっといいよね。あ、勿論私もいるので、いつでも遠慮なく頼るよーに」
「……ちょっと宇美じゃ心許ないな」
「酷っ!?」
「冗談だよ。何かあったら、相談くらいはさせてもらうさ」
「うんっ、どんと来い!」

 大袈裟に胸を叩いて「……叩いた手が跳ねない」と自虐する姿に、久々に声を出して笑った。
 いい友達を持った、と蛍子は思う。が、そんな彼女に言えないことは、あまりにも多い。
 好きな奴が、実の弟であることも。
 もう何十回もセックスして、キスもして、今も続いていることも。
 いつしか――絵と同じくらい、あるいはそれ以上に、健一との関係が大事になってしまったことも。
 煙草を吸いきり、ファミレスを後にして。帰り際、PHSの番号を書いた紙を渡され、いつでも連絡してね、今度は一緒にお風呂でも入りに行こう、なんて言って帰っていった親友の背中を、蛍子は見失うまで眺め続けた。

「……まだアイツ、家にいるよな」

 身体を重ねる時は、蛍子の部屋か風呂のどちらかだった。
 健一の部屋を避けていたのは、そこにコンクールへ出したあの絵が飾られているからだ。心の中にずっと残ったささくれが、向き合うことに躊躇いを覚えさせていた。
 そろそろいいよな、と思う。
 敗北も、悔しさも、認めることから始めなければいけない。
 宇美と話せてよかった。帰路を歩く蛍子の足取りは、ほんの少し軽かった。



 健一がバイトを始めた、らしい。
 らしいというのは、特に履歴書を書くような素振りを見せなかったからだ。駅向こうの商店街近くにある、喫茶店が勤め先。名前や具体的な場所は知らないが、何かあった時のためにと電話番号は控えている。どうにもふわふわと危なっかしい奴だが、あれで結構社交性も兼ね備えているのだから性質が悪い。両親があんなだからこそ、そう育ってしまったのかもしれない。
 ともあれ、平日は余計に不在の時間が多くなった。ただでさえ夜遅くまで帰ってこないのに、おかげでほとんど学校に行ってからの足取りが追えない。腹立たしいことに、夕飯は一人で食べる日ばかりだったから、必然的に蛍子は料理が上手くなりつつあった。前に注意されて以来、油を派手に使うものは避けているが。

「……やっぱ、二人で食った方が美味いな」

 蛍子が言い出したのもあるし、健一自身多少なりとも後ろめたいのだろう。休日はなるべく家にいてくれるし、夕飯も一緒の席で済ませている。当然、夜遅くまで何をしてるんだと訊いたことは一度や二度ではないが、恥ずかしいからと明言してくれなかった。桑畑綾のところにいるのかという問いは、否定されなかった。
 ――アイツは私をどう思っているのか。
 一人になると、よく考える。残念なことに、絹川健一という人間は、男女関係において誠実ではない。蛍子の方が後だったとはいえ、高校時代の同級生、しかも因縁ある相手とセックスしておいて、その上で実の姉にも手を出したのだ。誘ったのも、懇願したのも蛍子だが、何だかんだで一度箍が外れた以降、健一から求めることもある。もっとも、割合的には蛍子からのパターンが多い。
 身体が欲しいだけなら、あそこで踏み出したりはしないだろう。決して健一は思慮深い性格ではないが、さりとて短絡的でもない。禁忌を犯すことに対する躊躇いも、蛍子と同じく人並みに持っていたはずだ。
 けれど、と思う。
 健一は一度も、愛を囁いてくれたことがない。
 それを求めるのはあまりにも贅沢だ。自分だけを愛してくれと、自分だけを見てくれと、決して口に出してはいけない。本当にそうしてしまえば、既に壊れかけたこの家は、生活は、人生は、今度こそ粉々に砕け散る。
 甘やかで温い夢に浸ることをこそ、蛍子は選んだのだ。
 初恋を前に、大人にはなれなかった。稚拙な子供の論理が彼女を縛っていた。
 隠し、誤魔化し続ければ、いつか解決に至るかもしれない。
 絹川蛍子と絹川健一の二人で、幸せになれるかもしれない。
 そのために、醜い感情をずっと押し殺してきた。最後には自分の下に戻ってくればいいと思っていた。だから束縛しないし、帰りが遅くても咎めない。健一には健一の都合、関係もあると己に言い聞かせた。
 なけなしの虚飾が剥がれたのは、あの日、桑畑綾と大海千夜子に会った時。
 かつて蛍子の自負と夢のきっかけを目の前で破り捨てた相手が、一番大事なものを再び奪いに現れた。そんなの、許せるわけがない。
 焦りだけが募った。
 宇美に会って幾分落ち着きはしたものの、根本的には拭えていない。
 苛立ちや嫉妬をぶつけるように、健一のいない時間はカンバスに向かった。健一の部屋でコンクールに出したあの絵を見て、当時の自分を少しだけ取り戻した。荒れ狂う感情を転化し、無心で筆を振るう。そうしてできた絵をまだ足りないと部屋の隅に捨て置き、新しいカンバスと戦う。満足いく作品になるまで、もうひとつ何かが欠けている気がした。
 煮詰まってくると、集中力が途切れ始める。
 気付けばもう、いい時間になっていた。冷蔵庫から昨日の残りのつまみを出して頬張り、ちょっと外にでも行くか、と靴を履いた。
 残暑もすっかり鳴りを潜め、夜ともなると風は肌寒い。何とはなしに右手の甲で頬を拭うと、画材の汚れが付いた。そういえば顔も洗い忘れていた。家に戻ることも考えたが、結局面倒になって散歩を続行する。
 綾のことが頭に引っ掛かっていたからだろうか、瓶井戸公園に足を運んでいた。このまま『時の番人』を見に行くのは何だか負けたような感がある。意識的にそっちの方角とは逆へ歩くと、遠くから今の時間帯には見合わないざわめきが聞こえてきた。
 軽い好奇心で近付いてみる。
 そこは、異様な熱気に包まれていた。わらわらと集まった人々は大半が若者だったが、スーツ姿のサラリーマンや妙齢の男女も混ざっている。さらに、テレビカメラや集音マイクと思しき機材を抱えた人間も散在していた。
 皆が一所を見ている。自然、蛍子の視線もその場所に向かう。
 瞬間、耳にすっと届く歌声。
 丁度曲の変わり目だったらしい。でなければ、こんなにも通る声を聞き逃すはずもない。
 英詞だ。ネイティブというには若干日本語訛りもあるが、滑舌は良い方だろう。歌詞に覚えもある。ザ・ビートルズ『Let it be』――音楽には疎い蛍子でも、歌い手の凄まじさはすぐ理解できた。並外れた表現力と、それを支える歌唱技術が胸を打つ。
 圧倒的な才能の輝きに、一瞬綾が重なる。歌そのものの力強さと幻影の存在に、二重の意味で鳥肌が立った。
 しかし、本当に蛍子の心が揺さぶられたのは、歌声ではなかった。
 主役たるボーカルのバックで、ハーモニカが鳴っている。ありもしない郷愁の念を掻き立てられる音色。その中に込められた感情を、蛍子は知っていた。
 悍ましいほどの確信があった。外周に沿ってステージが見えるところまで走り、この場の誰もが注視している二人の人物――ボーカルの中性的な少年と、隣に立つバケツを被ったハーモニカ奏者を捉える。
 見間違うなんて、有り得ない。
 あれは健一だ。毎日のように夜遅い理由は、こうしてストリートライブをしていたからなのだ。
 いつの間にか蛍子は泣いていた。溢れて止まらなかった。
 無意識のうちに、手が伸びた。ステージまでは遠過ぎて、空振る指は何も掴めない。
 やがて視界はぼやけて、何もわからなくなる。
 自分と違って、健一は立ち止まってなどいなかった。弟の世界は、姉の知らない場所で大きく広がっていた。
 絹川蛍子は、ここでは観客の一人でしかない。
 ちっぽけなエキストラ。健一に気付かれることもなく、大勢の中で埋もれてしまう存在――そう自覚した途端、魂がひび割れそうな孤独を感じた。間違いなくそれは、絶望に至る想像だった。
 最早一刻も早くこの場から離れたかった。振り返らず、ステージに背を向けて、蛍子は逃げるように駆け出した。涙は枯れ果て、呼吸も苦しかったが、家に着くまで足は止めなかった。
 顔を洗うのも忘れ、ベッドに飛び込む。
 胎児のように身を丸め、目を閉じる。

 ――絶対的な、証が欲しいと思った。

 身体だけでは足りない。目に見えない心では実感を持てない。
 だからそれは、確かな形でなければならない。
 健一を繋ぎ止めるための――何よりも確実な、証明。

「……ああ、あるじゃないか」

 精神的な疲労で意識が途切れる間際、蛍子は安堵の笑みをこぼした。
 眠りに就く直前、強張った手が、優しく腹を撫でた。

 そうだ。
 健一の、子供を孕めばいい。



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何かあったらどーぞ。