「……セックス、依存症?」
「そう。私の場合、エッチをしないと眠れないだけなんだけど」
「いや、それだけでも充分とんでもないというか、すごく重大な告白ですよね?」

 頭のどこかが認めたくない事実をもう一度確かめるように訊ねると、冴子は首肯した。
 凭れ掛かっていた身体はいつの間にか離れていて、ぼんやりとした瞳が真っ直ぐ健一を見つめてくる。

「誤解はしないでほしいんだけど……別にエッチが好きなんじゃないの。どっちかというと嫌いだと思う」
「なのに……しないと眠れない?」
「微かな煙草の臭いと一緒よ。好きだとか愛してるだとかは関係なしにそうした後、男の人が満足そうな顔で隣にいてくれると、私は優しく包まれて、見守られてる気分になるの。それでようやく眠れる。……ううん、そうしなきゃ、絶対に眠れない」

 衝撃が強過ぎて、しばらく健一は何も言えなかった。
 深い隈ができても、歩くことさえ儘ならなくとも、頑なに睡眠時間を取らなかった……取れなかった理由。それが冴子の言うセックス依存症にあるのは理解したが、どうしてよりにもよって今、この場で口にしたのかがわからない。しかも、大して親しくもない自分に。
 その反応は予想済みだったのか、一瞬表情に影を落とし、冴子が呟く。

「……ごめんなさい。やっぱり私、ここを出ていく」
「え、でも、そんな体調で外に行ったら倒れるんじゃ……」
「倒れてもいい。これ以上絹川君達に迷惑を掛け続けるのは嫌なの。耐えられない」
「あっ、ちょっとっ」

 弱々しく立ち上がり、玄関へと歩き始めた冴子は、数歩でふらつき廊下の壁に力なく肩を付いた。
 遅れて追った健一が手を差し伸べるが視線を逸らすことで拒絶される。そのまま前進しようとしたので、些か強引に冴子の腕を掴み、ソファまで引き戻す。感じた抵抗は思ったよりもずっと強く、反動からか再び座った冴子の息は明らかに荒くなっていた。

「……出ていくのなら止めないよ。迷惑掛けたくないって言うなら、僕に引き留める理由もないと思う。だけど、今の有馬さんを放っておくのは嫌だし、ふらふらなまま出ていかれるのは個人的にすごく迷惑だ。だから、有馬さんには出ていかないでほしい」
「矛盾、してるわ」
「そうかもしれないけど、中途半端に心配させるくらいなら大人しく助けを借りてもらいたいんだ」
「……頑固なのね、絹川君って。ここまでだとは思わなかった」

 言葉とは裏腹に、呆れよりも感心の色が籠もった声。

「それでも……私の居場所はここにはないわ」
「まだそう決まったわけじゃ、」
「ううん。そもそも、最初から無理だったの。さっきの話も嘘なんかじゃなくて、全部本当。そうじゃないって信じたいし、昨日の晩だって、私は依存してないって思おうとした。綾さんと八雲さんと絹川君と、四人でご飯を食べてた時も、こんなじゃなければずっとここにいられるって思った。信じたかった」
「………………」
「だけど、この部屋に戻ってきて昨日の夜のことを思い出したら――」

 一晩中でも終わらない数の、懺悔。
 きっと、それらは全て、セックス依存症であるが故に重ね続けてきたものなのだろう。しなければ眠れない。眠れなければいつかは倒れてしまう。だが、誰かと一夜を共にすればまた別のしがらみや問題が生まれる。窪塚佳奈のことだけではなく、その数倍、あるいは数十倍。冴子は公園で出会ったあの時のように、憎悪や侮蔑の感情を浴びてきたはずだ。
 そんな環境で、境遇で、まともな人間関係は、築けるものなのか。

「私は、おかしいの。異常なの。それが私なの」

 無知を自覚していることは、決して幸福に繋がらない。自らの異常性を理解していることも、決して幸福には繋がらない。普通であろうとする限り、その事実こそが当人を苦しめる。
 自覚者たる冴子の言葉は、あまりにも悲痛で……だからこそ、健一も気付いた。気付いてしまった。

(――ああ、そうか)

 アヒルの子が普通なら、例えどんなに美しかろうとも白鳥は異常だ。醜ければ尚更、アヒルの世界には溶け込めない。
 どんなに憧れたって、怪物が人間になれないのと同じように。互いが違和感を拭えないまますれ違っていく。

「信じるよ。いや、本当はもっと前からとっくにわかってた気がする」
「……絹川君?」

 無意識のうちに避け続けてきた。
 目を背け、耳を塞ぎ、認識してしまうのを恐れていた。

「このマンションの十三階にいる人達はみんな、どこかがおかしいんだ。八雲さんはわからないけど……綾さんも、勿論僕も。だからここに来れた。僕達にはここが必要で、なければ生きていけないから。有馬さんもそうだ。おかしくないなら鍵は見つからなかったし、十三階にも入れない。だけど、僕はそれを認めたくなくて否定してきた」

 そして、一度認めてしまえばもう己は誤魔化せない。
 足掻いても、喚いても、アヒルの輪には加われないのだ。

「自分だけはそうじゃないって、普通なんだって、ずっと思い込もうとしてた。あんなにも最低なことをして後悔したのに、綾さんに慰められて、救われて、それで全て終わった気になってた。でも実際は何も解決してなんかいない。僕は少しも変わってない……おかしいままなんだ。でなきゃ、僕はここにいない。有馬さんの話を聞くこともできてない」
「ねえ、絹川君、落ち着いて。何を言ってるのか、私にはわからないわ」
「……ごめん」

 自分が感情的になってしまっていることを知り、健一は僅かな間、口を閉ざす。
 頭の中で再度考えをまとめ、己と向き合う覚悟を決めた。
 冴子の告白に応えず逃げてしまったら、もう彼女を繋ぎ止めることはできなくなる。

「おかしいことを出ていく理由にしないでほしい。そういう有馬さんだからここに来れたんだ。なのに僕は自分だけ蚊帳の外みたいに振る舞って、嘘を吐いてた。そのことで有馬さんを苦しめちゃったと思う」
「別に、絹川君を責めるつもりはないけど……どうしてそう思うの?」
「僕は――綾さんとエッチしたことがある。もしかしたら、気付いてたかもしれないけど」
「……うん」

 親しげな綾の態度。言葉の端々に散逸する情報。
 掻き集めて組み合わせれば、正解を見つけるのはさして難しくもない。
 そして冴子は、勘が良く働く人間だ。

「初めて会ったのにもかかわらず、欲望に流されて……好きとか嫌いとかそれ以前の問題で、気持ちいいからって関係を持ったことが情けなかった。綾さんは全く気にしなかったけど、僕は自分自身が許せなかった」
「……真面目なのね」
「その後ついでみたいな感じだったけど告白もされて、でも会ったばかりだからってことを理由に答えるのは避けて……」

 結論を出さないというのなら、もっと真摯に考えるべきではないのか。
 受け入れるにしろ、断るにしろ、なあなあで済ませてはいけないはずだ。

「それなのに、僕はある日、ホタルを押し倒した」
「お姉さんを?」
「はい。実の姉に欲情して、襲いかけたんです。ギリギリのところで踏み止まったけど、その事実は変わりません」

 冴子の視線に耐え切れなくなって、健一は目を逸らした。
 顔が見られない。返ってくるだろう彼女の言葉を聞くのが、恐ろしい。
 例え非難を受け入れる気持ちがあっても、現実に否定されるかもしれないと思うと、手が震える。
 時計の音が、やけに耳に付いた。

「……やっぱり私、おかしいのね」
「え?」
「絹川君が何でそんなに苦しんでるのか、全然わからないの」

 離れていた身体がまた預けられ、肩越しに柔らかい感触が伝わる。
 拒絶の意思を見せていた冴子の態度は、出ていくと告げた以前の穏やかなものに戻っていた。

「会う前のことはわからないし、ホタルさんとは話したこともないから勘違いかもしれないけど……二人とも幸せそうよ。それでも絹川君がそう思うのなら、絹川君にとっては酷いことなのかもしれない。だけど、私にはそれがいいことにしか思えない」
「……いいこと?」
「本当に、絹川君は自分のしたことがいけないんだと思う? 幸せなのに、間違ってる? 世間から見ればどうとか、普通じゃないとか、そういうのは抜きにして、絹川君自身はどうなの?」
「僕に、とって……」

 物事は常識で測れても、心は常識で測れない。
 個人の物差しはそれぞれが違う長さ、違う大きさをしている。
 例え健一の物差しが歪んでいたとして、その歪みは必ず正されるべきかと言えば、そうではないだろう。
 しかし――

「じゃあ、どうして有馬さんはそんな悲しそうな顔をしてるの?」
「………………」
「きっとどこかが間違ってるんだ。具体的に何かまではわからないけど、もし有馬さんが本当に間違ってないのなら、僕は有馬さんが出ていくって言った時、笑って送り出せたと思う」
「……何もかも上手くいくわけないわ。誰もが幸せになれはしないのよ」
「違う」

 それが常識だというのなら、健一は言い切れる。
 異常だからこそ、普通でないからこそ、自分の気持ちが定められる。

「現実には、幸せになんてなれないのかもしれない。辛いまま、苦しいまま生きていかなきゃいけないのかもしれない。でも、僕は信じたいんだ。そういう道は確かにあって、ちゃんと選び取れるってことを。この十三階が、僕達以外の人にとって存在しない、嘘みたいなものなのと同じように、みんなにはわからなくても、見えなくても、僕達は救われるんだってことを」

 あの日、健一は綾に助けられた。けれど十三階がなければ彼女と出会うことはなく、蛍子と解り合えもしなかった、そんな確信がある。
 ならば冴子も、刻也も、あるいはこれから現れる第五の住人も――何かをここで見つけられる。幸せに、なれる。

「……ごめんなさい。やっぱりみんな幸せになれるだなんて、信じられないわ」

 しばしの沈黙を経て、俯き健一の言葉に耳を傾けていた冴子が小さな声で言う。
 が、そこには何か明るい色が込められていた。顔がすっと持ち上がり、

「だけど、ここが私達を幸せにしてくれるってことは、信じてもいいと思う。だからそれが信じられなくなるまでは――ここにいるわ」
「……うん。わかった」
「でも、寝られないのは問題よね」

 放たれた結論を聞いて、ようやく健一は安堵した。
 強張り息苦しくなっていた空気が弛緩し、冴子の表情も緩む。
 それはまるで疲れを忘れたかのような姿だったが、勿論そんなことは有り得ない。どれほどの日数を置き続けてきたのかはわからずとも、冴子の体調がかなり危うい状態にあるというのは健一にも見抜けることだ。
 彼女が如何に鈍い、あるいは鈍さを装っているとしても、事実上の限界はあるだろう。そしておそらく、それは近い。
 一瞬安易な解決策が浮かんだが、口に出すことはしなかった。だから代わりに、せめてずっとそばにいようと思う。そう告げると、冴子は「本当に頑固なのね」と苦笑した。
 寄り掛かってくる細身は冗談めいた軽さで、服越しに伝わる体温は相変わらず冷たくすらあった。女性らしい柔らかさと懐かしいシャンプーの匂いが理性をチリチリと焦がし、けれど健一の心は自分でもびっくりするくらい落ち着いている。
 時刻はもう夜、健康な人間なら眠ってもいい頃。にもかかわらず睡魔が訪れることはなく、部屋に満ちる静寂と一体になっていく錯覚を感じる。ただこの場所にいることで安らげる、穏やかな時間。他人とそういうものを共有したのは、健一にとって随分久しかった。

「絹川君、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
「窪塚さんのこと……話しておかなきゃいけないって思うんだけど、もしよければ、聞いてくれる?」
「うん」
「言い訳にしか聞こえないかもしれないけど……私、別に窪塚さんの彼氏と寝るつもりはなかったの」

 窪塚佳奈と冴子の問題に関して、健一が知っていることはさほど多くない。それこそ噂に上る程度、佳那の彼氏と肉体関係を持った、という話くらいだ。しかし、冴子自身が抱える事情を知っていれば見方も変わる。彼女にとって、セックスとは『したい』のではなく『しなければいけない』行為だと理解していると、決してそれが望ましいものではなかったとわかるだろう。事実そうだった。

「あの時は、誰かそばにいてくれる人がいればよかったの。だから窪塚さんの彼を選んだ。一番面倒にならないって思ったから」
「……うん」
「私はエッチしないと寝られない。でも、いつも相手はそれを理解していないから、彼女持ちじゃない男の人は、エッチするだけで済ませてくれない。エッチしたからお前は俺の彼女なんだって、そう言ってくるの」
「……それは仕方ないとも思うよ。特別なことだし、許してくれたら普通はそういうものなんだって考えるんじゃないかな」
「そうね。でも、だからこそ遊びって割り切れる人がいいの。本気にしない人がいいの。彼女がいて、その上で私と寝てくれるなら、しても大丈夫だって思った。本当に彼女が大事なら断るはずだし、してから後悔したとしても黙ってくれるって。それならきっと、誰も傷付かないって……信じてた。信じたかった」

 賭けとするなら安易で、希望というにはあまりにも稚拙な、見通しの甘さ。
 だが、それを責めるには、冴子は子供に過ぎる。健一も然り、未熟な二人には過去を嘆く他に道はない。

「私には、窪塚さんの彼が何を考えてたかなんてわからない。ただ、窪塚さんがエッチをさせてくれないことに不満を持っているみたいだったから、別に彼とする気はなかったけど、選んだの。一緒にいてくれればよかった。それ以外のことなんて、望まれたくはなかった」

 そして、冴子の行動が引き金となって佳奈は彼氏と別れ、振り回されたことに対する怒りが原因たる冴子と、偶然そこに居合わせ、事情もわからず冴子に味方した健一に向けられた。彼を身体で誑かし寝取った、最低な恥知らずだと。
 少なくとも佳奈にとって、冴子はそういう人間でしかない。例えそれが真実の一側面でしかないとしても。

「……私は、酷いことをしたのよね? 自分の身勝手が、浅はかな考えが窪塚さんを傷付けて、絹川君にまで迷惑を掛けたんだもの」
「僕はともかく、窪塚さんに関してはそうだと思う」
「……絹川君は、迷惑だって思ってないの?」
「思ってないよ」

 健一はもう知っている。事の裏側で冴子がどれだけ苦しんできたかも、全てとは言わないが、おおよそのところは。
 それに何より、健一もおかしいのだ。おかしいから受け入れられる。ここに、いる。

「絹川君」

 首肯を返してからしばらく、冴子は顔を逸らして無言を貫いていた。
 もしかして眠れたんだろうかと淡い期待を抱いた直後、すっと芯の通った声が響く。

「お願いがあるの」
「……お願い?」
「わざわざ言うまでもないことかもしれないけど……」
「いいよ。僕にできることなら」

 悲痛、ではない。覚悟、でもない。
 たったひとことでは表せない、様々な感情をない交ぜにした、けれども、これ以上ないほど真剣なその表情に――とても大事なことを彼女は言おうとしているのだと、健一は理解した。

「私のことを、絶対、好きにならないでほしいの」
「……好きにならないでほしい?」
「絶対、絶対に。お願い、それを私に約束して」

 うっすらと瞳を潤ませた冴子の頬を、小さな雫が伝い落ちていく。
 あまりにも強く、重い懇願には必死ささえ感じられて、思わずどうして、と言いかけた健一は固く口を閉ざした。
 これに頷けなければ、冴子は間違いなくここを出ていく。そんな確信がある。
 だが、

「……わからないよ。今は大丈夫だって思っていても、心変わりをするかもしれない。僕は自分自身のことが一番よくわからないんだ。だから、絶対好きにならないなんて約束は、できない」

 欺くことだけはできなかった。冴子がこの答えを望んでないのだとしても、誠意には精一杯の誠意で返したかった。

「でも、守れるって信じることはできると思う。私との約束を守ってみせるって、そう自分を信じてくれさえすればいい」
「結果的に、守れなくても?」
「…………うん」

 契約ではなく、誓約。
 破らないでほしいという期待に応えるための、一種の儀式。

「わかった。僕は有馬さんを、絶対に好きにならない。約束するよ」
「……ありがとう」

 心底安心したかのように息が漏れ、そのまま冴子は再び健一に凭れ掛かった。
 身動きが取り難い状態で、ふと今交わした約束の意味を考える。絶対に、という強い言葉を使ってまで、どうして冴子は約束させたのか。好きになってほしくない、好きになられては困る、何らかの事情や理由があるのか。
 と、おもむろに冴子が立ち上がった。

「ねえ、電気、消してもいい?」
「え? あ、まあ、いいけど……」
「ごめんなさい。私、明るいの駄目なの」

 ……今の今まで煌々と電灯の点いた部屋にいるというのに、それはいったいどういうことなんだろう。
 違和感を覚えるのと同時、壁のスイッチに手が掛かり、照明が落とされる。
 明から暗へ、闇を纏った空間は物の輪郭を掴めなくさせたが、さして間もなく健一の目は慣れ始め、多少ながら視界の中の景色も明瞭になる。若干鋭敏になった耳が、ソファの方に冴子が戻ってきたのを捉えた。

「絹川君は、明るいの好き?」
「いや、隙も嫌いもないと思うけど、」

 しゅる、しゅるり、と衣擦れの音が聞こえ、健一は言葉を失う。それが止んだ直後に、今度は床を踏む音が響く。ゆっくりと振り向いて、そこに冴子の姿を認めた瞬間、ようやく明かりを消した訳が理解できた。……冴子は、制服を着ていない。

「約束を、忘れないで」

 健一が頷いたのを合図に、残りの距離が詰められた。
 細い肢体が倒れ込むように密着し、すっと瞳を閉じた冴子の唇が近付き、触れる。凭れ掛かられた時に感じた、あの微かな冷たさが伝わり、しかし健一は突然のことに硬直したままだった。
 五秒ほどの短い時間で顔が離れる。柑橘の匂いと、もう一つ、思考を痺れさせるどこか甘く不思議な匂いが鼻孔をくすぐった。
 二人分の体重を掛けられたソファが軋み、背中に骨組みの固さを感じる。暗闇の中、全身で光を遮る冴子の表情は判別できず、代わりにぴっちりと閉じられたカーテンの隙間から微かに入り込む月光と電化製品の小さな明かりが、二つの瞳に薄い輝きを宿していた。
 もう一度、唇が降りてくる。今度は先ほどよりも長く、執拗な口付け。舌が割り入り、探るように動いては口内を蹂躙する。健一にとってそれは大分すれば二度目の行為だったが、綾のものとは違い、どこか手慣れている感があった。

「……っ」

 本能に従いこちらも舌を差し出すと、一瞬互いに引いてから絡み合う。鼻だけで呼吸をすることはすぐに覚えた。適度に息を吐き、思うまま冴子の舌の感触を味わう。肌の冷たさとは逆に流れ込む唾液は熱く、粘ついた水音が脳を蕩けさせて、健一は下半身のモノが昂っていくのを知った。

「ぷは……、絹川君、脱がしてもいい?」
「あ、はい」

 口端から溢れた雫が顎を伝い、それを拭う間もなくひんやりとした冴子の指がシャツのボタンを外していく。首元を始点に手探りで一つ一つ下へと進み、はだけたところで止まらずそのままズボンのベルトに手を掛けた。慣れた動きでホックとチャックも解いて下着一枚にする。押さえを半分失った健一の逸物が、途端に布を突き上げた。
 まだ気恥ずかしさが消えず、何とも言えない気持ちを抱きながらも健一はシャツの袖から腕を抜く。とはいえ冴子は下着姿、暗闇に紛れて表情こそ窺えないものの、彼女も同じ、あるいはもっと強い羞恥心を感じているのかもしれない。組み敷かれている体勢が些か辛いこともあり、そっと上半身を起こして自らインナーも脱ぎ去った。鍛えられてはいない、しかし適度に筋肉の付いた身体が剥き出しになる。その胸板に冴子の冷えた手のひらが触れ、

「……温かいのね」
「有馬さんは、冷たいですね」
「きっと代謝が悪いのよ」

 事もなく言い放つのと同時、冴子は弱い力で健一を再び押し倒す。
 僅かに身を引き、残っていた下着も取り去って、互いに一糸纏わぬ姿となった。
 蝋めいた白い肌は闇に薄く浮かび上がり、手を伸ばせば容易く届く距離にある。綾と比べれば小さいが、それでも包み込める大きさの胸。力を入れて抱き締めれば折れてしまいそうな細身は、端正な面立ちと合わせて美しい。
 だからこそ、この状況は現実感の欠けた物に思えてならなかった。
 ――理性が囁く。今のままで流されていいのか、と。けれどもそう考えるより早く、指がしなやかにそそり立つ剛直へと絡む。
 冷たさと仄かな温かさを併せ持つ感覚に、自然呻き声が漏れた。

「絹川君はじっとしてていいよ。私が動くから」

 消極的な健一の心境に気付いたのか、跨った姿勢で冴子が腰を上げ、既に準備ができているモノを自らの入口へ導く。視界に映ったそこはまるで濡れていないが、構わず先端が宛がわれた。指の支えが失われた瞬間、性器が割り開かれ、固定された肉棒がずぶりと飲み込まれていく。
 暗くてよく見えないことが、もどかしい。健一の中で沸々と獣の衝動が噴出し、欲望の行き先を探し始める。

「ん……」

 全てが沈んだ。下腹部に異物感を抱え、小さく息を吐いた冴子は再度腰を持ち上げる。組み伏せた健一の腹に手を置き、単純な上下運動で抽出と挿入を繰り返すだけのものだ。しかし、潤滑材がない分行為に慣れた膣内は独立した生き物のように締まり、絡み付き、間断なく健一に刺激を与えている。きつくはない。ただ、恐ろしいほどに密着していた。

「……どう? 気持ち、いい?」

 そんな風に訊いた冴子は、何故か苦しそうな表情を見せていた。襲い来る射精感に耐えながら健一は頷くが、返事にも満足気な反応をせず、そう、と呟いて一方的な奉仕を続ける。
 エッチが好きなんじゃないの。どっちかというと嫌いだと思う――その言葉は、嘘ではないのだろう。彼女にとってセックスは眠るための手段であり、それ以上のものではない。行為をすること自体に意味があるのだから、相手が満足して隣にいてくれさえすればいい。なら一番手っ取り早いのは、自分の痛みや苦しみを度外視して達させることだ。
 何人もの男と肌を重ねてきた今の彼女は、それだけの技術を所持している。例え向こうが乗り気でも、本番より先に前戯を挟むだけ。することは変わらない。そう割り切ってしまえば、快感を得られずとも最後まで行くことができる。

「くっ! あ、有馬さん……!」
「我慢、しないで。私に、任せて」

 抽挿が加速した。扇情的な腰の動きが精を絞り取ろうとするものに変わる。
 そこに至っても気持ち良さそうな素振りを少しも表さない冴子は、最早痛々しくすらあった。
 ……無意識の衝動が、鳴かせてみたいと訴えた。望むまま本能を満たしたいと叫ぶ猛獣は、理性の檻を噛み千切って外へ出ようと暴れ出す。そして、健一にその欲求を抑えられるほどの余力は残されていない。抑えようとも、思わない。

「え、絹川君……ひゃあっ!」

 伸ばした両腕が冴子の腰を左右からホールドした。突然のことに戸惑い、動きが止まったところで激しく下から突き上げる。内壁を削り取るような勢いに嬌声が上がり、冴子の力がふにゃりと抜ける。一瞬で立場が逆転、逆に健一が冴子を押し倒す形になった。
 闇に覆われ、おおよその感情は読み取れるものの、心の機微までは判別できない。不安がっているのか、嫌がっているのかもわからないが、もうそんなことは関係なかった。
 獣は獲物を貪るのみ。理性を凌駕した本能が、健一を文字通り突き動かす。

「あんっ、ちょっと、だめ、いたっ、待って、強いっ」

 詰まった息で途切れ途切れに言うも、一心不乱にピストン運動を繰り返す健一は止まらない。
 ずくん、ずくん、と何度も貫かれ、苦痛を覚えていた冴子も次第に別の何かを感じ始めた。見せまいと隠した隙、僅かな反応を察知しては的確にそこを攻め立てる健一に引っ張られ、場の雰囲気に飲まれる。いつしか懸命に抑えていた声も、部屋中に響く音量になっていた。

「……有馬さん、濡れてますよ?」
「ふぁ……え、嘘……」
「ほら、こんなにいっぱい」

 意地の悪い言葉と共に、秘裂から溢れ出した愛液を指に絡めて冴子に見せる。
 何より雄弁な証拠を前にし、暗闇の中でもわかるほど冴子が頬を紅潮させるのを満足そうに眺めて、健一はさらに腰振りを速めた。先ほどまでは無理矢理捩じ込んでいたものが、止め処なく分泌される蜜によって抵抗を無くす。冴子の髪から漂っていた柑橘の匂いは性的な臭いに掻き消され、キスの時よりもいやらしい水音と相まって正常な思考をどんどん溶かしていく。

「あふ、あぁん、んっ、あっ、はっはっ、ぅうんっ!」
「胸、触りますね」

 返答は口を塞ぐことで封殺。蜜で粘ついた指を右の乳房に食い込ませ、やわやわと揉みしだく。丁度健一の手で掴めるサイズのそれは、触り心地も抜群だった。明らかに尖った乳首をぴんと弾くと、一際大きな声が口内で上がる。間違いなく感じていることを確認し、緩急を付けながら冴子の情感をさらにじわじわと炙る。

「んうぅ、ちゅるちゅぱっ、はぁっんむ、ちゅくちゅぷ、っは、あむくちゅ……っ」

 キスに集中すれば自ずと腰の動きが疎かになるが、そんなことを考える余裕は二人とも持ち合わせていない。健一は半ば本能のまま、冴子も普段の冷静さを失って、互いに互いを求め合う。
 そこに愛はない。ただ、気持ち良くなりたい、という思いがある。
 溢れた唾液がこぼれ落ちソファを汚す。鼻がおかしくなりそうな空気の中、熱に浮かされて舌を絡め、冴子は初めて感じるのに近い、強い快楽に蕩けた瞳で健一を見つめた。

「ぷは……ぁ、絹川、君?」

 唇が離れる。ふっと刺激が止み、物足りないと思ってしまったその精神的な間隙を狙って、剛直が膣内を抉るようにして引き抜かれた。あまりの快感に何も考えられなくなった冴子を、同じ勢いで突き込まれた肉棒がこれまで以上の激しさで攻め立てる。
 健一が赤子めいた仕草で左の乳頭に吸い付き歯を立てると、冴子の身体が跳ねた。軽くイッたらしかったが、構わず抽挿を続ける。あられもなく喘ぐ姿は、健一の劣情を煽り際限なく高めていく。
 ギリギリのところで留めているものが、あと僅かで溢れ出てしまうことを自覚する。

「有馬さん、もう、そろそろ……!」
「あうっ、んん、おねがい、外に、はぁっ、ああぁぁぁっ!」
「ぐぅ……っ!」

 舌足らずな声で懇願する冴子に頷き、膣奥を貫く勢いで腰を打ちつけた。
 絶頂の悲鳴が上がるのと同時、耐え難い精の奔流を感じ、急いで逸物をずるりと引き抜く。泡立ち白濁した愛液を纏い、先端が秘裂から離れた瞬間に健一は射精した。鈴口から飛び出した精液が、冴子の尻を、膣口を、腹を蹂躙する。
 その光景を、快楽の余韻に浸って身を震わせていた冴子は、虚ろな瞳でしばし眺めていた。ぼやけた頭で自分が浴びた熱の塊が何であるかを理解し、終わったんだ、と思う。今まで関係を持ってきた男は、例外なく一度の射精で済んだ。後は満足して寝るだけだったし、これで私も……そう考えた時、腰に手が添えられる。
 何を、とは訊くまでもなかった。
 萎れていたはずの肉棒が再び挿入され、達したことで敏感になっていた膣内が強烈な性感を生み出す。
 初めて、冴子は狂いそうになるほどの気持ち良さを体験した。
 ――健一が想像したように、誰とセックスをしても冴子が気持ち良いと思ったことはない。
 必要に迫られての行為である以上、それが望ましいものになるはずもなく、相手を悦ばせる術ばかり覚えても、それで自分まで快楽を得られるとは限らないだろう。少なくとも冴子にとって、セックスとはただの手段だった。
 しかし、今回は違う。他の男達より健一は鋭く、そして激しかった。
 加減を知らない、荒々しくも確実に快感を与えてくる抽挿。全身を駆け巡る、苦しさと甘やかな痺れ。
 ……この心地良さに流されることが、嫌ではない。

「有馬さんっ、またっ、また行きますっ!」
「いき、くるし、だめっ、いっちゃう、あっ、あ、ああっ!」

 二度目の射精は最初に比べ些か衰えていたが、それでも充分な量だった。
 今やソファはくじょぐじょに濡れ汚れ、肌が触れるだけで不快な感触になってしまっている。至るところに飛び散った精液と愛液の混合物に塗れ、放心する冴子は、眠りとは遠い状況に置かれていた。

 夜は長い。
 床に就くまでに、冴子はさらに二回の射精で白濁を浴びることになった。



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何かあったらどーぞ。